SLシゴマルの悲惨な処遇
撮影:加納智明
原町発展の要因は、一つには原の町機関区の開業があった。開業当時の写真がJR原ノ町運輸区・機関区に所蔵されているが、煙を立ち昇らせてる煉瓦造りの機関庫が写っている。周囲には人家もなく、電線もない。陸蒸気と呼ばれた頃の、構内作業用のB6型蒸気機関車の特徴ある正面の顔が見える。鉄道工事請負の歴史を記した本によると、鹿島組などは、この常磐線の請負工事で今日の基礎を築いたという。
原町では松本孫右衛門がこの工事で小野義真日本鉄道会社社長に気にいられ、大いに名を上げた。このエピソードで福島民報社の百年史に曽我社長と出て居るのは、原町市史を引用した誤りである。曽我は常磐線開通のあとで社長に就任した人物で、会社創立から建設時代に鉄道工事の専門家小野義真が終始、経営の陣頭に当たっていた。
昭和42年に常磐線が全線電化され、蒸気機関車は姿を消した。おりしも全国で、さよならSLのイベントが行われ、鉄路のかたわらには最後の姿を撮影しようというアマチュアカメラマンたちが殺到した。
蒸気機関車は、古き良き時代への郷愁を誘う絶好の被写体として愛されてきた。
今日でも福島市の児童文化センター庭に、貴婦人と呼ばれるC57の優美な姿を見ることができる。飯野町の公民館庭にはC12の小さくとも活躍した時代をほうふつとさせるかわいらしい姿が現場にとどめられている。この機は一時期、NKH朝の連続テレビ小説「すずらん」のテーマとして、北海道の雪の原野を走った。SLは修理すると実際に動き出す本物なのだ。
実は原町市にも、鉄道ゆかりに土地として国鉄時代に水戸鉄道管理局が、C50蒸気機関車SLシゴマルの現物を貸与されている。場所は駅東側の機関区構内のはずれ、錦町の一角で人目に触れぬ場所だった。現在、関場建設の新社屋の庭の一画のように見えるところ。
昭和50年代には国鉄OBたちが毎年10月14日の鉄道記念日になると清掃道具一式を準備して汚れを洗い落とし、きれいにペンキを塗って化粧直しをしていた。
今日、荒れる青少年の粗暴な犯罪が問題になっているが、当時から公共物への破損行為は多く、この原町市のシゴマルも集中的に破損の対象にされてきた。スプレーでのいたずら書きが行われていたので、これを修復したのが鉄道OBたち「SLを守る会」の例年の仕事だった。
老いたる元鉄道マンたちは黙々とSLを清掃し、一方で毎年のように市当局に移転の要請を申し入れた。「人目のない物陰の現在地から絶えず市民の訪れる夜の森公園に移転すれば、公然とイタズラしたり破損したりする者はいないはず」という理由だった。
かくして昭和56年10月、当時の渡辺敏市長は、市民とSLを守る会に移転の予算化を約束。一千万円を超す移転費用は、ただ運搬するだけの金額としては巨額に感じられたが、原町市発展の生き証人として、SLこそは原町の歴史に残る産業遺物であり、モニュメントである。
原町発展に尽力精励した先人の苦労をしのぶための教訓として、駅前か市役所前に展示してもおかしくない材料だ。
ほかにこれといった町の宝物があるわけではないし、この移転発表は最適の決断として、当時の福島民報などは特大活字で報じているのだ。
ところが、この移転計画が議会内で反対された。
(中略)
平成7年(1995)にオープンした野馬追の里歴史民俗史料館の建設にあたって、二十五億五千万円が費やされた時。くだんのSLシゴマルの移転については問題にもされなかった。
今年四月から五月にかけて、同資料館は「交通の近代化」をテーマに企画展を開き「講師を呼んで「産業遺物の保存の大切さ」を講演した。
シゴマルの処遇は、その後、市の下水道処理施設の近くの公園内に移転することになったという。遅まきながらの移転だが、この公園は無人である。なぜ、専門職員を充当した監視可能な歴史民俗資料館の庭に移転しないのか不明だ。立派な庭園が造成されたが、シゴマルは文化財として認知されなかったのだ。
こうしてSLの移転は頓挫し、その間にC50は放置されつづけた。
(静かに進行する「歴史の町」原町の危機・政経東北1997年9月)
開館された博物館に隣接する用地にシゴマルは移転され、ようやく歴史産業遺産として展示された。