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海軍艦上攻撃機「天山」の通信兵片寄守正も1945年4月6日喜界が島上空で戦死した
原町生まれで相馬中学から海軍予科練に進んだ片寄守正も、沖縄戦で戦死した。海軍艦上攻撃機「天山」乗り組みで通信担当だった。
中野磐雄につづいて予科練の半年遅れの彼は、同じルートで海軍航空少年兵に年少にして進んだが、神風神鷲と称せられた中野の陰で、知られていない。
攻撃目標を見定める先発の偵察には、通信の任務が必須であり危険度も高かった。
攻撃第251飛行隊の天山2機が沖縄攻撃に発進した。だが1機は発動機不調のため当方海面に不時着炎上した。偵察員は重傷を負って一命を取り留めたが、他の2人は戦死した。(註6)生存していた偵察員が峰村昇上飛曹(乙種予科練10期。偵察。)で、朝8時頃救助された。4月末に飛行機で内地に帰還したが、右足を大腿部中央から切断して義足となってしまった。(註7)戦死した2人は佐藤勇上飛曹(操縦)と片寄守正二飛曹(電信)である。
(註6)防衛研究所図書館所蔵『第131海軍航空隊戦時日誌 S19・7~20・4』所収「第131海軍航空隊串良派遣隊戦時日誌 S20・4・1~20・4・13」
(註7)前掲註5 63頁
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