昭和19年10月29日読売報知福島版
倅は固より御国に捧げた身体でありよい死場所を与えていただいたのさへ有難いと思ってゐましたのに二階級特進とは何といふ光景でせう
11月12日毎日新聞
生きて再び還らぬと覚悟を決めて飛び立つ時のあの子の顔つきはどんなであったかと・・・これが心配でした、しかしあの晩(十月廿八日午後九時)の報道では予科練の歌をみんなで歌って”中野は出発します”と挙手の礼をしてとぶびたったとありましたので、私は思はずラジオにつつ伏して泣いてしまひました
安堵の胸が下がったやうでした
淡々として語るその言葉には、まことに神鷲の母にふさはしい凛凛しさがあふれてゐた
10月31日読売報知福島版
みんなはつと思った、聞き違ひかなあと、しかし相馬郡原町出身と聞けばもはや間違ひはない、なんといふ痛快事であらう、私達はこの報道が終ったとき期せずして万歳を叫んだ、そしてよーし俺も続くぞ、と心に誓った
映画と言えば、中学五年の時、全校生徒で、特攻隊出撃のニュース映画をみたことがあった。今はもうなくなったが、中村座という映画館があって、コールタールが屋根から垂れ、便所がやたらに臭いおんぼろ映画館だった。軍艦マーチがなって暗い黄色いフィルムがカタコト廻ると、飛行服に身を固めた特攻隊員が挙手の礼をしながら首に白いネッカチーフをまいて次々に大映しされて現れた。その時、突然、教頭の林先生が立ち上がると、
「見ろ! あれが中野だ!」
と絶叫した。半分涙声であった。一瞬、全校生水を打ったようにシュンとなった。
軍神。中野磐雄大尉(相馬中。第四十四回卒業)の姿が現れたのはほんの一瞬の出来ごとであった。
注。大尉でなく一飛曹。のちに階級特進して少尉。
はじめて御手紙差し上げます。
此のたび御令息には名誉のご戦史あそばされ、何と申し上げてよいやら言葉もございません。
そのご戦死も単なる死ではなく、史上に燦たる特攻隊の初の勇士として、家内一同未だに御子息様の事をおしのび致します時、感涙にむせんで居ります。
此の決戦の幕がおろされますと同時に、私達の住んで居ります台湾も大空襲を受け、尊い経験を得、そして一段とあの憎い米英を打たずばの意気に燃えたのでございます。
御貴家様、もうすでに御承知のように、海軍のきまりと申しましょうか、訓練の暇に一週間目、或いは十日前目なりの上陸(外出)が許され、お疲れになっていらっしゃる御身を、あたたかい畳の上に横たえ、そして又、明日の訓練に出陣に、お休みなされるのが、たてまえとなっているのでございます。
丁度、今年の三月頃、御戦友の方三人と此の蔭山の家にお足を運ばれたのがご縁で、今日もうして失礼ながらお手紙を差し上げるぼでございます。私の家は母は三年前になくなりまして、当時父と姉と私の四人でございました。
人様のように行き届いたお世話は出来なくとも、自分達の出来るだけの力でお世話致そうと、父も大の兵隊さん好きで、それに男の子が家に一人も居なかった関係上、我が子のように可愛がっていたのでございます。御子息さまも他に隊で指定されました宿を持って居りましたが、お暇の時にはきっと訪ねていらして、一家団欒と、あたえられた外出を愉快におすごしになり、お帰りになられたのでした。
手紙には写真が添えられていた。
インクのあとも生々しく、めくるアルバムの一頁に残されてあります。
その夜、写してお上げしましたのが同封の写真でございます。夜写し、その上下手な私の手なもんですから、はっきりとれず、まことにお恥かしいのでございますが、せめて御遺族の方に、こんなに元気でいらした事をお知らせ致したく、やっと今日お送り致すのでございます。
ラジオをきき、新聞であのご立派な勲を見ました時、「ああよかった、立派な死所を得、それに、あんな神とも仰ぐべき方をお世話できた私達一同本当に光栄に 思って居ります
お別れの時、作ってお上げしましたお守り袋にマスコット(子守人形、ピエロ)、よくは見えませんでしたが、出陣にさげていって下さったようでした
何分にも皆様、御体に気をつけ下さいまして、磐雄様さんの菩提をお守り下さいませ。
御子息さまの御武勲をたたえ、皆様のご健康を南の島よりお祈り申し上げます。
先はお悔方々ご一報まで かしこ
十二月九日
台湾新竹市花園町一〇四
蔭山 登美子
中野ひでよ様」