古山正夫古山正夫
一月九日
セトヤへ行って皆で遊んでいたら、渡瀬より電話有り。正ちゃんに召集令状来たとの事、びっくりしてしまふ。私は正ちゃんに招集来るなんてまだまだ思ひ予想もしてなかった。
一月十日
加藤隼戦闘隊の映画を見てくる。マライの虎って言ふのにニュース。ニュース映画は比島戦線だった。陸海軍の特攻隊の出撃前のモヨウなど有り、陸軍では万朶靖国隊の二隊。もうエンヂンもかけ出発直前の勇士へ機体の整備員でせう、翼の上にあがって耳に口をつけてささやいて居る姿、勇士のうなづいてる姿、一番インショウに残った。

一月十六日
正ちゃんが今朝ついにたつ。召集が来てより一週間有ったけど、東京へ行って来たりしたのでやはりずいぶん忙しかった。正ちゃんが征くって言ふので張り切ってた心、ぼんやりしてしまふ。

古山正夫はわたしの従兄にあたる青年で、立教大学に在学中だった。神宮外苑雨の中の学徒出陣式に彼も出ていたと思う。丁度、帰省中の彼は、川口少尉と急速に親しくなっていた。
正夫ちゃんは、先に第一次神風特別攻撃隊で戦死した中野磐雄さんと中学同級で、特に仲良かった。中野さんの新聞記事を全部とってあった彼は、そんな話題もあり航空兵である川口少尉と親しくなった。
九日に学徒出陣の召集令を受けた。出征の武運長久祈願に隣組の人々と共に、川口少尉も命令を受けて原町を去る身なのに……。
そして還ることのない二人の別離の宴と知るはずもなく、私達も賑やかに御馳走作りをしていた。
この時、従妹昭ちゃんの記憶によると、川口さんは十円の選別を賜わり、びっくりさせた。当時の十円は、田舎町のサラリーマンの一ヵ月の給料だったという。
一月十九日、川口少尉も命令にて原町を去り、仙台の師団に入隊していた正夫ちゃんも三月満州に移動した。
正夫ちゃんが満州へ発つ日、原町駅に知らせを受けて馳けつけた。長い長い軍用列車でそれにはどの列車も、カーキー色の軍服の人々がぎっしり乗っていた。やっと探しあてたとき、列車は動きだしていた。彼はにこりと笑って窓から身をのりだしていたが、それは淋しげな笑顔だった。あんな淋しい笑顔の青年を見た事がない。
敗戦の翌年、二十一年三月十六日、満州にて戦病死、ついに戻ることはなかった。私の親族から出したただひとりの戦死者が彼であった。
八牧美喜子「いのち」p136~139

 

正夫の親友になった川口弘太郎の日記:

川口弘太郎から原町への手紙・日記

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