中野磐雄少尉追悼会
昭和二十年八月終戦まぎわ、特攻隊員として果てた原町出身の中野少尉の遺族をたずねるルポルタージュが地元紙に載った。
「追悼会の日」と題するこの文は、三回にわたって連載され、筆者は日本文学報国会員今井達夫氏、画は松島一郎画伯、とある。
薄闇に小さく光るものが流れた。おや、と見透かすと女の子たちの指にとまった蛍であった。私たちのまがる路地もそこであった。翌日、いや翌々日明るい時見るとその角に中野少尉の家であることを教へる立札があったがその時は夕映の名残りを残す空ながら、足下には摺り足で歩かねばならぬほどの夜闇が迫ってゐたのである。
私たち、松島画伯と私は、案内をしてくれた町役場のひとのあとについて間口のひろい玄関に立った。私は家人に挨拶をするいとまなく靴を脱いで祭壇の前に正座した。神鷲の写真が空をにらんでゐる。花輪、供物、心づくしがそれをかこんでゐる。私はしばらくのあひだ、礼拝を忘れて神鷲の瞳をみつめてゐた。
かすかな音がして神鷲の母上であった。やや耳が遠いけれども言葉は明らかで声にも張りがあった。父上は白髪の多い元気な心持のやはらかい老人で、窮屈な姿勢になる私たちをかへって解きほぐしてくれた。
私はこの訪問記を書くと同時に、神鷲の伝記を綴る任務を与へられてゐた。私は七月の二日にお訪ねする筈であったが、一日の朝新聞を見て急に予定を変へたのである。新聞は七日に顕彰会主催の追悼会のあることを告げてゐた。お伺ひするなら、その時の方がいい、私はさう考へた。追悼会には種々催しのある筈、訪問記の私の筆の足りなさを補ってくれるだらうと頼りにしたのだ。今夜は六日、私は父上母上とほんのすこしお話しできればいいと思った。それといふのも、実は、かうしてお伺ひしてみて、一番先に感じたのは今まであまりにもたくさんの人たちの訪れがあり、そしてあまりにも根掘り葉掘り神鷲についてお訊きしたのではなかったかといふ想ひだったのだ。もしや心ない質問を向けて、父上母上の心持を傷つけてはならぬ。だから私はひとりで役に立たない訪問記者になってゐた。
それにしても、伝記は書かねばならぬ。この遠慮の心持のために伝記が整わぬやうではかへって申し わけが立たぬ。私はかたはらで鉛筆を走らせる松島画伯の姿勢に励まされてすこしづつその話に触れていった。父上も母上も、私に聞きよいやうに口をひらいて下さる。
「お話するやうな事情のない子供でした」
口をそろへていはれる御両親の心持は、謙遜でもあらう。しかし謙遜とのみ受けとって神鷲の幼少時代に超人的なものを誇張して求めることも慎しまねばならぬ事にちがひない。磨き抜いた頂点を神鷲の心境とするならば静かな前の平凡さはむしろあとにつづく者に自信を与へる諭へといふべきではあるまいか。
それにしても、私はたくさんの話を聞くことができたのであるけれども、それは伝記の方に譲らねばならない。私の訪問記はそれ故実の少いものになるべき惧れを持つ。私はせいぜい伝記と二重にならぬことを漏らさず記すべく努めなければならない。」(第一回)
新聞に出た敷島隊出発の大きく引き伸ばされた写真が飾ってあった。円陣をつくった神鷲たちを前にして負傷の右肘を松葉杖に託し副長に支へられながら訣別を告げる司令のうしろ姿に、中野少尉の姿はほとんど隠れ、飛行帽とマフラーに装はれた顔も半ばほどしか覗いてゐない。
「顔のすっかり見える写真があまりありませんので」
神鷲の顔を写真から写してゐる松島画伯に父上は気の毒がられる。私たちは、しかし、大きく引き伸ばしたその写真を長いあひだ沈黙をもってみつめてゐた。静かな夜である。
「けれども、あんなに早く死ぬとは思ってゐませんでした」
ぽつんと母上がいった。最後の別れと、そして壮挙の予想のあったことと、そしてまた覚悟のきめてあった話のつづきである。さうだ。予想は十分ついてゐた。だから激励もしてやりこちらの覚悟も決してゐた。それにしてもかかはらず、その予想その覚悟を追い抜いた素早さで神鷲は翔び立ったのである。また沈黙がつづいた。その沈黙を打ち消すや、○○を含んだ父上の声があった。
「あれは大変運動が好きで、そして、うどんが好きでござんした」
「運動とうどん?」
「ハイ。うどんを好きでしてな。いつぞや○○へ面会に行った時など、宿で天丼を二つも食べたあと町でまたうどん屋をみつけると五杯も食べましてな」
私たちがうどん問答をつづけるあひだ、母上の写真をみつめる姿勢は動かなかった。私は、その眼がしらに光るものを盗み見た私を今でも責めてゐる。
翌日は夜半来の雨が晴れて、遠く夏の雲が浮かんでゐた。私たちは追悼会に列席するため、国民学校へ向った。神鷲の毎日かよった学校、生家から三四町の近さであらうか。今日は追悼会とともに遺品展覧会、講演会、夜は移動演劇隊の顕彰演劇があると聞いた。
私たちは来賓質に案内され、校長やその他の人たちに紹介され、神鷲の思い出を聞きながら定刻を待っていた。中野少尉顕彰会で神鷲の伝記を編纂中であることを知って居た私は、私のつづる伝記がそれと重複するのを惧れて昨夜も父上にそのことを告げたのであったが、今またその危惧を持ち出してみると、それは私の杞憂であった。顕彰会編纂の伝記はむしろ資料に近い性質のものであって、それを私の綴る伝記の基礎にさへ使へといふ好意なのだ。私はありがたくお礼をいひ、四五日中に印刷のすむといふその伝記を、編纂者である本紙原町支局の渡部さんから送ってもらふことを渡部さんと約束したのである。実を言へば、このことは私をほっとさせた。昨夜も大分父上母上から神鷲の思ひ出話をお聞きしたが、まだ伝記を綴るだけの確信の持ち得なかったのである。私は今日も明日もおひまをみて伺わねばならぬと思ってゐたのだが、戸籍調べのような質問を向けることに心苦しさを覚える心配をしてゐたのだ。これで心苦しさは大分かるくなったのである。 第二回
追悼会は十時から講堂で行はれた。床板に座る生徒たちの瞳は、祭壇に飾った神鷲の大きな写真に吸い寄せられて、身動きする者もなかった。知事代理をはじめとして各代表者の玉串が捧げられる。
異彩を放ったのは、佐藤朝山氏であった。佐藤氏は本県の産んだ木彫の巨匠である。黒の筒袖に黒のもんぺ、伸びるまで伸ばした銀髪を古代の髪のやうに束ねた姿は、異様ではあるが立派だった。中野少尉顕彰会は神鷲の姿を永久に残すべく、佐藤氏にその像を依頼し快諾を得たのだ。その機縁で朝山氏が列席された。式終わるに臨み顕彰会長から中野少尉の父上に彫像の目録が贈呈され、私たちは追悼会場を出た。
別室 一つの教室に中野少尉の遺品と神鷲にゆかりのある品々が陳列されてあった。私たちがそこへ足を踏み入れるとき誰かがいった。
「今日は警報が鳴らないので何よりでした」
すると、別の人が答えた。
「神鷲の追悼会だから、敵機も恐れをなしたのでせう」
私はこの問答を聞きながら、明るい教室に枡形に列べた机の上を拝見して行った。先づゆかりの品々であった。斉藤茂吉氏の色紙と相馬御風氏の軸があった。もちろん、ともに神鷲の勲をたたへる歌である。各地から父上母上宛の手紙があった。血書の手紙もあった。
静かに足を進めてゐた私は半紙二枚つづきの清書を見て、可憐な思ひに眼がしらが熱くなった。
カミカゼ 中野兄サマへ 一ネン 国○○
カク
たったそれだけではあったけれども、心○のあふれる文字であった。それが私の胸を迫らしたのだ。二三歩すすんで私はまた立ちどまらなければならなかった。一通の電報が目を打ったのである。
ゴシソクコウヲトモニサレカンシャニタヘズゴメイフクヲシンズ セキマリコ
敷島隊の隊長は関大尉である。敷島隊の発表のあった日、私は湘南の口沼に住んでゐて、鎌倉のまり子未亡人の談話など神奈川版で読んだ。霊前に読経の折、庭前から飛び入った一羽の小鳥が祭壇に当たって斃れ、未亡人の父上は読経の僧に小鳥の冥福をも併せ願はれたとの記事もあった。まことに、休暇の折など庭の小鳥とたはむれたといふ関大尉にふさはしい逸話である。私はそのことを思い出しながら、電文をくりかへし読んだ。御冥福を祈るとは尋常の弔辞だが、御冥福を信ずとは容易な心持ではない。私はここに関大尉と中野少尉との魂のつながりを告げられた想ひであった。 最後に神鷲の遺書を写させていただく。
お父さんお母さん 私は
天皇陛下の子としてお父さんお母さんの子として 立派に死んでいきます
喜んでいってまゐります
では 御体を大切にお暮らし下さい
さやうなら 磐雄より
父上
母上 様
四つに折った折り目の古び方に見られるかねての覚悟であった。そして、ごく粗末な紙質の便箋であった。(終)
連載の最終回が載ったのは、終戦の前日の八月十四日のことであった。
この追悼会というのは、昭和二十年七月七日におこなわれた。
「校長先生が、君たちは中野少尉のあとに続き、仇を討つのだ、というふうなことを話したように記憶してます。外では、愛国婦人会の人たちが、募金をしてました」
当時の原町国民学校生徒菅野清二さんはこう回想する。
私も、中野磐雄少尉の遺品や遺書を拝見したことがある。「ああ航空決戦隊」という映画の上映に際して、朝日座のロビーに遺品が展示された折にである。遺書の文字は、少年の筆致でしたためられていたのをおぼえている。
「原町空襲の記録」p35~39