姉木村幸さん(原町市南町二丁目107)の記憶
弟の思い出と申しましても余り思い出せませんが、思い出されることとしては、学校に入った頃は近くのお寺の鐘突き堂などで遊んだことで、上が女ばかりだったものですから、、母には大分可愛がられたようでした。
中学校の頃は、私が満州に行っておりましたものでよくわかりませんが、弟は至って気のよい、朗らかな子で、皆なからは磐坊(バンボウ)と云われ、友達も沢山おったように思います。
飛行隊に勤務していた大石さんという方が家に下宿していらっしゃいまして、毎日弟に飛行機のことを教えられていたようで、弟もすっかり飛行機通になり、それで予科練に行く気になったのだと思います。
いつの日だったか忘れてしまいましたが、私が満州から帰って来たら、弟が丁度帰郷しておりまして、弟の大好物のうどんを食べに行き、お腹いっぱい食べたと喜んでおりました。それが最後にあった磐雄の姿でした。
磐雄少年は道をはさんで北隣にあった常福寺境内でよく遊んで遊んだ。当時、常福寺の屋根には百羽以上の鳩が来てすみかとしていた。磐雄少年より一歳年上のY少年はこの鳩を捕えることに目をつけた。
Y少年は土塀の上にあがると、その上を巧みに移動して寺の屋根にとりつき、鳩が夜の休所としている屋根下の暗がりに近づいて、その口から手を入れて静かに鳩の出て来るのを待った。やがて、鳩はクウ、クウと鳴きながら出てきて、彼の手にぬくもりを感じて体をすり寄せて来る。そこを難なくつかまえるのである。磐雄少年とS少年(一歳上)とは参画して見張り役を努めた。
こうして毎夜数羽の鳩が彼らのためにつかまり、翌朝近くの河原で羽をむしられ、三人は調味料や器具・燃料を持ち寄り、他の友人たちも加わって焼鳥を味わった。
いつしか日がたつにつけ、鳩の数は目に見えて減っていった。ある朝、磐雄少年は家の脇の流れをみて驚いた。三羽程の鳩が生きたまま縄にしばられて流れてきたのである。
おそらくY少年の仕業だったことは想像がついたgた、磐雄少年は何となくかわいそうな感じにかられ、以後見張りを断った。
しかし、Y少年は中野家の借家に住んでいたので小学校へ行くまではよく一緒pんひ遊んでいた。
Y少年は成人すると、中野家の裏で絵うどん屋を開業したそうだが、幸さんが弟に腹一杯うどんを食べさせたのはこの店だったのだろうか。今はYの行方もわからず、その後、鳩は常福寺にすみかを求めることもなかった。
幸さんが書いて来られた文の内容は、私が調べて書いてきた中野軍神の記録と一致する。それは当然のことである。しかし、何となく嬉しさを覚えたので、蛇足ではあるが、耳にしていた「鳩の話」をつけ加えてみた。
「空征かば」森鎮雄より、最後の部分。
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