郷土史の忘れ物 2
3、大社、多珂神社
延喜式神名帳によれば、
行方郡八座、大一座、小七座
多珂神社は、名神大。小七座は次の通り。
高座神社・日祭神社・冠嶺神社・御刀神社・鹿島御子神社・益多嶺神社・押雄神社。
これら八社の位置は、延喜式の時代と変わっているものがあるが、真野川に沿う御刀神社と鹿島神社の二社(ともに製鉄・抜きに関係あり)は昔のままであろう。太田川に沿うものとして、多珂神社ほかがあるが移動しているものがある。
名神大の多珂神社は諸説総合して年代を見ると、淳和天皇の天長二年・825年の神体が安置されていると伝える。延喜五年905年12月26日宣下により、崇神天皇の世に勧進されたものが、先述の天長二年に御神体が奉納され、醍醐天皇の延喜式神名帳に載せられた名神大社であったと考えられている。
4、「なめかた」銭の読み・行方・畜銭
小学館、古語大辞典による「なめかた」
なめ=縵・幕。銭の裏の、文字のないなめらかな面。「縵ナメ銭背無文の処、幕同じ」(書言字考節用集)
「銭畿内にて表の方をもじといひ、東国にてかたといふ。同じく裏のかたを畿内にてぬぬとといひ、東国にてなめといふ」(物類称呼)
「和名称」(平安中期、938年成立)によると、郡名、地名としての行方は東国すなわち茨城、陸奥にはあるが、畿内すなわち関西にはない。
さて、武蔵国秩父郡から出土した「和銅」は、新たな年号を生み出す慶事となった。和銅元年708年正月のことである。和同開珎(古銭)は、この年はじめて歴史の上にデビューしたとされる。
和銅四年711年十月のこと、銭(和同開珎)を蓄えた人に位階を与えるという「蓄銭叙位令」が出された。(続日本紀)
蓄銭思想はこの頃から植え付けられたと見てよい。