大正13年の台風
このほか草野の校には漏れているが、大正13年の秋の台風では、原ノ町駅が水浸しになって使えなくなり、高平の現在の信号所に設けられた臨時駅が設けられた思い出を渡辺敏が語っている。
それというのも私が調べたブラジル移民の敏の弟の淳は、ブラジルで面会して来た初期移民ですが、第一回笠戸丸で明治41年に渡伯して、豚の飼育で成功した高平出身の山田という馬喰が、大正13年に日本への故郷訪問を果たして、敏と淳の父親に頼み込み、自分の牧場をすべて順に譲るから、助け手としてブラジルへ連れてゆくという相談を決めた。
仙台の第二師団に入営していた渡辺敏が、一生で一度の、最期の兄弟の面会になるから、と父から家に呼び戻されて兄弟の面会を果たした。ブラジルへ出かける時に、台風が来て、重なった。
 それが高平の臨時駅だったから、敏さんが忘れるわけがなかった。一生に一度の弟の別れの思い出であった。
福島県全体の台風の被害について記録されてはいるが、原ノ町駅が浸水して使えずに臨時の駅が応急的に高平にできて復旧まで使われたなどという詳細な内容の記事では新聞には出ていない。
渡邊敏さんは、門馬直孝さんとの市長選挙で敗れて浪人時代だったので、自宅に暇にしていたから、私にとってはいつでも会えた。
渡邊淳が住んでいたクリチーバという町に大甕出身の鈴木正という移民を訪問した。彼の息子二人を原町に送って、親戚の家に滞在しながら、先祖の墓参りをさせたのだ。
その様子と、渡辺敏宅を訪問した様子をビデオに撮影し、クリチーバの鈴木正と、渡辺淳に見せるためにカセットを土産にして持たせた。
その鈴木正さんが、返礼として、渡辺淳さんをインタビューして、撮影したテープを郵送してきた。カメラは、ソニーの最新鋭のベータムービーの中古を鈴木二世兄弟に託して土産に持たせてやったので、このカメラは日本とブラジルを往復して役に立った。

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