1957年12月13日。午後10時過ぎ。
寒い日だった。
大杉産業の火事は、夕方から午後7時あたりまでのことと記憶していたが、かなり遅いかった。
我が家の向かいの相原さんの屋根の上に、轟然と燃え盛る炎がこんなに近くに見えるのだから、ごくごく近所なんだと思った。
焼け焦げた煙も漂ってきていたし。その一枚の記憶のピースの映像と、煙の分子の復原サンプルまで、錆び始めたこの66歳の記憶の倉庫から、ちゃんと直ぐに出て来る。
あの夜の空間と時間とが、特別な「できごと」として、時空を超えてよみがえる。
大杉産業の火事、という件名の単語だけで、あらゆるぼくの知識の藪と、嗅覚の奥と視神経の視床から、肉感的な体験と一緒に、肉体を包み込む三メートル立法の空間まで、ぽんと出て来る。
神様が創造された、こういう発達途中の幼時の感性だの記憶のメカニックだの、アトランダムな選択だの。なんて人間に備えられた機能は、繊細すぎるほど繊細で
、おどろくほど驚愕的だ。
ふっこうステーションの講座で、福島市の渡部司さんに、高校生時代に撮影したSL写真を紹介してもらったが、大杉産業の火事の夜に、消防車のホースが足りずに火力に負けそうな状況から、水をタンクいっぱいに満タンにしていたD51の使え、と助役の判断で、原の町駅のすぐ目の前の当時のバス営業所の隣の(現在の黒潮海苔店)あたりにあった建材の店舗の火災を消し止めたエピソードを聞いた。
昭和32年頃といえば、いまの駅前交番と駐車場の空間には国鉄購買部という組合員向けの消費空間があった。
ボンネットの福島交通か常磐交通のバスがあった。
駅前通りの、銀杏並木が、電灯が暗くなるからとの理由で伐採され、土砂ぶりには水たまりになる駅前通りが舗装された始めたのが昭和31年のこと。
昭和32年には、原町高校が火事になり、小学校も火事になり、廃校のニュースとともに、犯人なき放火がやたらにおきたから、ほかに事件のないわが原町では、ほかに娯楽になるイベントもなかったゆえに、放火犯人以外の市民にとっては、ローマ帝国のネロ皇帝にとっての火事に匹敵する「見世物」ではあったのである。
ところで、小学生の頃の記憶だった気がしていたのに、計算してみると4歳の時の記憶なのだ。それにしては鮮やかすぎる。
友人の記憶の補助線をいくつか聞いたら、渡部司さんは昭和31年か、32年か33年あたりというし、石神の渡辺さんは大杉産業は昭和35年の操業だと記憶していた。
歴史的な絶対時間と、記憶の中でバイアスのある「思い出」になっている「できごと」とは、それぞれに違っていた。