大正時代の原町商況
大正3年7月12日福島日日
祝 御野馬追 広告
相馬電気株式会社 電話二十七番 その他中村
大正3.9.24.祝全国自転車競技大会
福島日日新聞社主催
原町銀行
原町商業銀行
平銀行原町支店
福日T3.12.11.小高町空前の賑
大正3年 小高銀行、小高信託株式会社破産
(小高町史)
第四の金融・原町信託会社の参入
大正4.1.17.福島日日
原町より
◎原町信託株式会社は従来業務閑散を極め余り成績良好とは言はれざりしが年来の相談纏り松永七之助等の引受くる所となり住所も原町一丁目阿部市助氏宅に移転し営業方針を漸次拡張の機運に接したれば将来大に地方財界を補助する所あらん
大正4年ごろの松永七之助商店や松永留之助商店の殷賑ぶりは、瞠目すべきものがある。
福日T4.7.8.原町評判記
4.6.23.鹿島評判記
4.1.25.原町評判記
4.1.29.石神村評判記
4.2.5.石神村評判記
4.7.13.鹿島評判記 小高町色街
大正5年海岸タイムス広告
原町銀行
原町商業銀行
平銀行原町支店
大正5年1.1.広告 原町銀行 原町商業銀行
この年、原町商業銀行は消滅
福島商業銀行小高支店開業
国立百七銀行小高支店開業
大正5年9月3日福島新聞
原商銀合同説
大正7年
一 原町銀行
八 平銀行支店
大正7年 福島日日7.11福島相互銀行広告
7.8.11.原町電気騒動
7.30.相馬電気騒動
8.4.原町電気騒動 東管大疑獄公判 収賄には常磐線開通以来の旧慣
大正8年福島日日
3.6.中村 相馬 磐城 三電合併の熱叫
大正8年 民報
12.19.前小高銀行 重役三名訴えらる 原告は鈴木実業銀行
大正9年
福島日日6.11 相馬銀行破産請求の弁論
名家のスキャンダル 紺野家醜聞
福島日日大正10.8.8.
石神村資産家の倅
海水浴中に溺死
福相銀行原町支店員
ウヰスキー飲んで入水して
相馬郡石が三村長野資産家紺野盛一氏長男一郎(二五)は目下福相銀行原町支店に奉職して居るが五日午後五時相馬郡磯辺浜に海水浴に出掛け潮流に流され行方不明となりしが翌朝午前六時頃同海岸に漂着したるを
捜索隊が発見し遺骸は中村警察署より係員出張し検視の上父盛一氏に引渡されたが一郎の死体は磯辺浜より担架にかつがれて三日午後六時頃実家に到着したが一郎は大正八年東京慶応大学に入学中身体虚弱のため半途退学し其後は実家にあり療養中であつたが再び全快したるを以て家事の
都合上前記福相銀行に就職したもので四日は銀行の方を欠勤して前記の始末に及びたるものなるが死体検視の際想像する処によれば遺留品にウヰスキーの空瓶が散乱しありこれにて判断するに多分ウヰスキーを多量に呷って海に入ったので心臓麻痺を起したのであらうと
8.10.福島日日
福相銀行原町支店員
煩悶の末の自殺
此頃発見された遺書で判明
召使女と結ばれた恋
相馬郡石神村大字長野の資産家紺野盛一長男一郎(二五)が去る四日午後七時同郡磯辺浜に於て溺死したるは誤死なるが如く伝へられてゐたが一郎は相馬中学卒業後慶応大学に入りしも
心臓病に陥って退学し静養中全快したので本年一月より福相銀行に勤むる事となり五月に至り原町支店詰を命ぜられたるもので重役よるも信任は厚かつたがこの程自宅より発見された遺書に依れば一郎は本年春頃から我家の召使女某と懇となり遂に女が妊娠するに至り一方一郎は両親の勧めによつて安達郡油井の
資産家某女を妻に迎ふる事に縁談纏まり近く結婚式を挙ぐる事になつたので煩悶の末自殺を遂げたものである事が判明した
大正11.1.1.広告
原町銀行 電話一番
平銀行原町支店 電話八番
福相銀行原町支店 電話十一番
東京信用銀行原町支店 電話十五番
福島商業銀行原町支店 電話十一番
生糸暴落ショックと操業停止
11.福日
1.19.相馬機業者操業休止を断行 本年初頭に入り、生糸の暴騰
県内銀行は全滅
福島県内では、有力銀行だった福島商業銀行が昭和二年に休業に追い込まれ、大動揺がはじまった。
続いて昭和三年に福島銀行が支払い停止となり、相馬銀行、信達銀行が解散、破産。磐城銀行が休業、四倉銀行が休眠状態。浪江銀行は七十七と合併。安達実業銀行も休業。福相銀行は解散の憂き目をみた。小高商業銀行は新規取引停止。平銀行が休業し浜通りの地元銀行はほぼ全滅した。そして年末には福島貯蓄銀行も休業。白河商業銀行も休眠状態になった。県内銀行の親銀行というべき第百七銀行も休業。本県における金融恐慌のピークを迎える。
昭和四年に第百一銀行新規取引停止。昭和五年、郡山合同銀行休業。昭和六年、磐越銀行破産二本松銀行支払猶予、須釜銀行休業、白河商業銀行支払制限、須賀川銀行支払猶予、新山銀行免許取り消し。
金融恐慌で福島県を代表する銀行がすべて消滅したのは、大戦後の本県金融界が養蚕業の激動で極度に圧迫されたという特殊事情のため、経営内容が悪化したのに、経営者にそれを整理する近代的経営能力に欠けていたからだという。(「福島県金融経済の歩み」)
もう一つ、銀行動揺をことさら烈しくした要因に、県内主要新聞による暴露合戦がある。当時の銀行は政友会と民政党の政党色に塗り分けられており、憲政系の福島毎日と政友系他二紙は、内部暴露や相手方銀行への誹謗中傷を繰り返し、預金者の不安を煽り取り付け騒ぎを大きくした。政争とマスコミのセンセーショナリズム。これもまた日本の恐慌をそのままなぞったのである。
経済復興の突破口を求めて、日本は政党政治もかなぐり捨てて中国大陸に軍隊を送り込み、その後の雪だるま式の戦争への坂道をころげ落ちて行く。その結果を現代の我々は知っている。いつか来た道に迷い込まぬために、その道を振り返ってみた。
昭和初期の相馬地方の銀行群
大正12年福島新聞 原町小学校・土木監督署落成記念式 広告
磐城小高町
株式会社第百銀行小高支店
株式会社鈴木実業銀行小高支店
株式会社小高商業銀行
小高銀砂工場
(原町銀行組合)
株式会社原町銀行
株式会社平銀行原町支店
株式会社福島商業銀行原町支店
株式会社七十七銀行原町支店
株式会社第百七銀行原町派出所
株式会社東京信用銀行原町支店
株式会社第百七銀行中村支店
株式会社五城銀行中村支店
株式会社七十七銀行中村支店
株式会社安田銀行中村支店
株式会社福島商業銀行中村支店
13.民報正月広告
原町銀行組合
原町銀行 平銀行原町支店
福島商業銀行原町支店
七十七銀行原町支店
第百七銀行原町出張所
東京信用銀行原町支店
大正14.1.7.民報
石神村報徳信用組合設立
相馬郡石神村では今回農村振興のため小資本の融通を目的とし報徳信用購買販売組合を開設することとなったが右の勤倹力行の美風を涵養し且つ地方繁栄を図るに機宜を得たるものだといふので同村では百五十円の創立補助を交付することに決定した
大正14年1月
2.28.浪江銀行決算 佐藤慶助頭取 民報
福島新聞
大正14.10.28.門馬氏の新設銀行不認可 他行と合併ならと条件つきて・・・
15.1.1.民報
石川組原町製糸所
原町紡織株式会社
鹿島銀行組合 原町銀行組合
15.1.5.民報
第百七銀行原町派出所 新築成る
相馬郡原町太之助町通りに百七銀行派出所が鉄筋コンクリートで堂々新築せられたが去る十一月七日起工式十二月二十八日竣成移転した設計工事は福島の吉筋工務所で工事の進行は驚くばかり迅速を極めた同派出所は去る大正十年新設せられ矢部弥助氏主任として赴任そ爾来営業状態頗る順調を極めてゐる本年三月矢部氏小高支店長に栄転したので現在は青田氏を主任とし加藤伊達泰の両氏が其の下に忠実に勤務してゐる
大正15年1月27日民報
原町信用総会
相馬郡原町信用組合では廿四日総会を開き各種報告あり組合長遠藤周輔氏辞任につき後任に阿部市助氏を選挙し之に伴ふ理事の補欠は松永七之助監事には今村源八氏を挙げ組合功労者及び勤倹力行者五名を選み左の如く表彰した
村田乙治 久保木綱五郎、後藤留五郎、松本角之助、佐藤金治
福島毎日
大正15.2.6.旧年末の原町 各商店の売出し
15.5.2.雲雀ヶ原に十七人の支那人
15.5.9.満州村
15.6.1.永原 高梁試作
15.8.4.満州村
15.11.9.原町に高梁会社
15.11.11.夕刊 小高町の秋市
15.12.職業別明細図
合名会社 原町銀行
東京信用銀行原町支店
株式会社第百七銀行小高支店原町出張所
株式会社小高商業銀行
株式会社福島商業銀行小高支店