はらのまち金融史
原町商業銀行の謎
福島県史の人物伝は、紺野道悦について原町市史からの引用として略記しているが、かえってそのために、その内容は悲惨な過誤を呈している。
紺野道悦 原町銀行頭取 ①嘉永4年2月6日 ②大正8年2月12日 ③石神村長野 ⑥父は藩医、医学を学んで父の医業を継ぐ。明治22年から40年まで村会議員。その間、県会議員として活躍。明治35年原町銀行を創設して、頭取となり、地方の金融経済蚕業の発展に貢献したが、大正7年福相銀行と合併した。県史22p211
旧原町市史は、原町商業銀行が明治31年、原町銀行が33年に創業した、と記している。原町商業銀行が2年も早くできたとしている。それは違う。過誤の起源はここにある。
商業銀行は、門馬直記に対抗する人脈によって、あとから出来たのだ。
県史は紺野道悦が明治三十五年に株式会社原町銀行を創設した、と書いてもいる。紺野は石神村の議員や県会議員などをやったが、商業銀行の設立直後に急遽参加してすげかえられてトップ役員となった人物なのである。
県史の記述は、原町市史を丸写ししているだけなので、しかたがないが、その誤謬の責任は恥辱とともに残るだろう。
明治41年
この年、高平村、大田村、報徳信用販売組合等できえる(相馬市史年表)
この年、石神村の相馬冷蔵庫株式会社開業(相馬郷土誌)(相馬市史年表)
原町商業銀行誕生の真の理由
42.1.16.
◎原町商業銀行の由来
原町銀行との対抗
宛然たる選挙運動
去十日を以て開業したる原町商業銀行は資本金二十万円と称し同地方経済界の一問題となり居れるが既に原町銀行のある上に此の一金融機関が生るるに至りし由来を聞くに先年煙草が官営となりし当時原町銀行の頭取が煙草の見越買を試み不幸にして数万円の損失を招きしかば重役等も捨て置かれず同氏を退職させ門馬直記氏をして頭取たらしめ其の監理の下に手堅く営業する事となり且つ当時の支配人鈴木熊雄氏も或る事情の為め辞職したり然るに鈴木氏は地方生糸商機業家等と手広く融通し来りしに反し門馬現頭取は緊縮主義を採り是等の融通を中止せしかば生糸商や機業家連はハタと閉口し勢ひ別に金融機関を設くるの必要に迫られ平生門馬氏に快よからざる小資本家の賛同を得、紺野道悦氏の如き有力家も之れに参加し昨年十一月頃より新銀行設立の準備に着手し或地方の小銀行を買収して資本金を二十万円とし過般第一回の払込みを了しいよいよ開業の運ば(び)に至れる也勢ひ斯の如くなれば両銀行間の競争熱は火花も散る許りにして一方原町銀行は貸出しを中止して預金の取付に備へ一方商業銀行は預金者を吸集せんとして互ひに料理店等に引張り合ひ選挙競争当時に見るが如く御馳走政略を以て猛烈に運動し居れりと之が為め小高平等の銀行も意外の影響を蒙りつつある由なるが同地方の経済界は此の競争の為め如何の反動を生ずべきか刮目すべきと云ふべし
つまり、原町商業銀行は実は原町銀行の頭取の経済的失脚と、こののち幹部が意見をたがえて分裂して、後継の頭取門馬直記に対抗した勢力の人脈によって明治42年に創業したことがわかる。小銀行の名義を買って創業年数をさかのぼって明治30年としたのである。
明治42年1月16日
福島民報5000号記念広告
合名会社原町銀行 電略(ハ)
一月九日開業
株式会社原町商業銀行
銀行一般の業務を取扱申候
とある。原町商業銀行は明治42年1月9日に開業したのである。それ以前には地上には存在していない。
鈴木熊雄から紺野道悦へ
T3.5.23.福島日日
◎原町(商業)銀行の復活
相馬郡原町商業銀行は其専務取締役たる鈴木熊雄氏が同氏の個人経営に係る原町製糸所(二百人取)羽二重会社(機台七十個据付)の資本に投入したるに生糸及羽二重の暴落により遂に製糸所及機業会社共債権者に渡すの悲劇に陥り到底資金を銀行に回収の途なく合計二十余万円の欠陥を原町商業銀行に生じ茲に同銀行は営業停止の破目に陥り止むを得ず株主総会を開きて一株に対して五円ずつの払込をなすこと預金は五十円以下は本年中支払をなすこと百円以下は大正四年に於てすること五百円以上は五年賦となすことを決議し預金者に交渉せるに此場合に良法なき故何れも同意したるを以て頭取たる紺野道悦氏は鋭意整理に従事し此程より平常の如く営業開始せり
紺野は明治42年になって登場する人物。
これは、明治41年の約款と42年の約款の変更事項を比較すれば一目瞭然である。
明治41年12月21日更正 定款
株式会社 原町商業銀行
取締役 柴崎平蔵
右 仝 西 方治
右 仝 富田啓蔵
右 仝 鈴木熊雄
右 仝 田中善之助
明治42年5月5日更正 定款
株式会社原町商業銀行
取締役 紺野道悦(この部分のみ変更)
新株応募割当確定シタルトキハ取締役ハ二週間ヲ下ラザル期間ニ於テ引受人ニ対払込ノ通知ヲ為シ明治四拾二年六月参拾日迄ニ払込ノ事
生糸暴落による専務鈴木熊雄の失脚と降格、彼の個人企業「原町製糸工場」の売却によって、原町経済にとっては、その後の石川製糸の原町進出が準備された。
明治43年
第24期決算報告 株式会社 原町商業銀行
取締役頭取 紺野道悦
取締役 西方治
取締役 富田啓蔵
取締役 村井昌作
取締役 田中善助
取締役 鈴木熊雄
監査役 西忠雄
監査役 渡辺礼五郎
42年に誕生した原町商業銀行の営業報告が、すでに24期になっているのは、新聞にいうように、起源の古い銀行を買い取って会社実績の経歴としたからである。
原町銀行の誕生
それでは原町銀行はいつ創立したのか。
明治33年9月3日の福島民報にその記事がある。
○原町銀行 は相馬郡原の町鈴木龍助村井昌作堀川雄八鈴木熊雄四氏の合名にして設立し此の程許可を得たることなるが近々開業すべしと云ふ
定款
第一条 当社ハ証券ノ割引為替諸預リ金貸付等ノ銀行事業ヲ以テ営業ノ目的トス
第二条
当会社ヲ合名会社原町銀行ト称ス
第三条
当会社ハ本社ヲ福島県原町大字南新田字町二十九番地ニ設置ス
第四条
当会社資本金三万円也トス
第五条
各社員出資及其住所氏名左ノ如シ
一金六千二百五十円也 福島県原町大字南新田字町九十八番地 門馬 直記
(明治四十一年十二月二十八日登記
一弐万二千五百円ニ増資)
一金六千二百五十円也 福島県原町大字南新田字町参十参番地 村井 昌作
(明治四十一年十二月二十八日退社登記)
一金六千二百五十円也 福島県原町大字南新田字町十参番地 堀川 雄八
(七千五百円也)
一金六千二百五十円也 福島県原町大字南新田字町九十六番地 鈴木 熊雄
(金額抹消線アリ)(氏名モ抹消線アリ)
抹消線と、括弧内付記は後年の追記らしい。
鈴木熊雄と村井昌作については、のち明治43年の原町商業銀行の役員に名を連ねている。その理由については既述した。
明治36年1月1日更正 約款
合名会社 原町銀行社員
鈴木龍助
仝 門馬 直記
仝 村井 昌作
仝 堀川 雄八
仝 鈴木 熊雄
明治37年1月28日 民報
○相馬郡中村町近況 昨年の豊作は一昨年凶作の瘡痍を医するにも足らず昨今米穀出盛の為め人気少しく引立ちしやの観有れど日露問題の低気圧は商界を圧し旧年末にも拘はらず金融緩慢市況一般に沈滞せり▲南相馬の産業界には熱心なる半谷清寿氏有れど北相馬なる中村地方の人士は甚だ起業心に乏しく一両年前迄錦織、浜名、佐久間等諸氏が率先して奨励せし羽二重も遂に成功を見ず今日にては該業を継続するもの一人も無き有様なり
明治37年7月3日 民報 広告
合名会社 原町銀行 第八期営業報告
明治三十七年九月三十日
合名会社 原町銀行
頭取 門馬 直記
支配人 鈴木熊雄
社員 鈴木龍助
同 村井昌作
同 堀川雄八
明治38年7月4日 民報 広告
原町銀行 第十期営業報告
人物について
村井昌作
「福島県東海岸における人物」第三十二節
報徳家として尊崇すべき村井昌作氏
との評あり。
安政三年四月福島県相馬郡原町本町二丁目に呱々の声を挙げ、幼にして神童の称ありしと同時に、常に学を好みて研鑚怠ることなく・・・
酒造家として古き歴史を有する一個なると共に・・。郡会議員として乃至町会議員として・・・且つ原町商業銀行の取締役たり、又は相馬電気株式会社の取締役として就任し・・・
一度経済界の罷弊するものあるに邂逅して其の社合せる銀行の瓦解を止なくするに至り、為めに財産を挙げて其の責任に充て、遂に没落の運明を招致したるは惜むべし、然れども氏の没落は節操を殺乱せるを潔よくしたる也
「福島県東海岸における人物」は、大正4年の発行だから、この時点では原町銀行をすでに辞めて、原町商業銀行の役員となっていた。
相馬地方のその他の銀行
明治32 小高銀行創立(小高町史)
明治33 小高商業銀行創立(小高町史)
明治33年10月2日 小高イグサ業
明治34年11月19日 小高銀行株主総会
3月27日 絹織物第五部会 原町中野屋
10月30日 小高イグサ業同窓会
野崎亀喜という人物は面白い。
明治29年までに、相馬郡双葉郡の郡民の総意としていったんは二郡の地理的中央の原町と決まっていた相馬中学の設置を一転して中村誘致に導いた政治的暗躍の首謀者であった。
人物 不言実行の偉人野崎亀喜氏を評す
明治38年7月12日 民報 広告
株式会社 相馬銀行 第十六期営業報告
頭取 野崎亀喜
取締役 加藤澄登
同兼支配人 松岡重盛
監査役 新妻重富
監査役 伏見三郎
株式会社 小高銀行 第十一期営業報告
頭取 半谷清寿
監査役 半谷一意
明治43年7月21日民報
広告 相馬銀行第26期営業報告
株式会社小高銀行
大正4年・福日
1.1.広告 小高銀行 小高商銀 信託株式会社
大正6年2.14.福島日日
小高に鈴木銀行支店開業 小高支店は妙見通り東角へ昨日九月より新築工事の処、九日午後二時より地方有志家五百名を小松屋旅館本店に招待し盛んなる開店披露の宴
平銀行原町支店の参入
明治39年12月13日民友広告
今般相馬郡原町へ支店を設置し銀行一般の業務を誠実懇切の取扱可申候間本店同様御引立御取引願上候
原町支店開業
十二月十五日開業
明治三十九年十二月 株式会社 平銀行
頭取 山崎 与三郎
支店主任 今村 忠八
一名を、今村銀行とさえ呼ばれた。
人物 今村忠八
福島新聞
明治35年12月20日
○原町の篤志家
今村忠八
原町地方の殖産興業の動き
銀行業務は機業会社の操業資金のためだった
○原町機業会社開業式
相馬郡原町に於ける機業株式会社は昨年十一月の創立に係り一両日中に済外式百台の力織機全部運転の都合なるが同会社は来月を以て開業式を挙行すべしと因に同会社は本年中に猶ほ百台の力織器を据付け二百台の大工場と為す計画なる由
明治41年9月26日民報
明治43年1月21日民報
第四期営業報告
貸借対照表
相馬機業株式会社
取締役社長 佐藤太之助
取締役 今村忠八
専務取締役 木幡 清
取締役支配人 渋佐寿郎
右検査候処相違無之候也
監査役 門馬昌蔵
監査役 星栄
相談役 松本孫右衛門
時代は電気動力機業へ
明治43年4.24. 6.24. 民報
原町より
相馬郡原町にて 秋生
○相馬郡原町の有志家は同町に電気事業を起すの必要ありとし小高、鹿島其の他の町村に於ける有力家の賛助を得相馬電気会社を設立し其筋に許可申請の処此の程許可されたる由に候。
○同会社の営業区域は原町及び小高の両町にして発電所は同町を距る約二里石神村地内の由に候、同町の有志家が始め同会社を設立せんとするや先つ同地方に於ける電燈及び電力の需要程度を調査し同時に需要者より予め其申込みを得利益の確実なる事を認めたる上始めて其筋に許可の申請をなしたるものの由に候。
○而して同社は近く総会を開きたる上事業に着手する由なるが明年二三月頃までには其営業を開始するを得るに至るべき見込の由に候。
○小高、原町地方は中村地方に先じて力織機業大工場を経営するものに至れるものに候へ共電気事業の如き未だ企画されず又電力利用の便もなきため其電力は凡て汽缶を据付けずんば之を得ざる能ざる状況にありしを以て小規模の経営をなさんとするものあるも其設備を す 多くの資本を要する事となり収支相償はざるが故に絶へて之を企画をなすものなかりしものに候、然るに之等の小規模経営希者は自由に電力の供給を受くを得るに至るべく容易に其企業をなし得るに至るべく候。
○茲に於てか同地方の羽二重業は遠からず勃然として興るべく恰も川俣に電力の供給を見るに至るや間もなく小規模の力織機業経営者が続出するに至りたるに相似たる結果を見るならんと存じ候。
○同地方の蚕業は近年著しき発達をなし今や多額の収繭を見るに至れると共に、己に機械製糸会社のあるありて羽二重業者に向って適当の製糸を供給するに途充分に備はれるの時に当り、新に電気会社成りて力織機業経営の希望者の速に起たん事を迫る、其前途や誠に有望なりと言ひ得べく候。
○横溢せる活気を以て、常に積極的事業の振興に努力しつつある同地方の有志家が、今又如斯有望なる事業を起す、小生は茲に其前途を祝福すると共に有力家諸氏の労を多とするものに候草々。
同日同紙面
○原町製糸場と新繭
相馬郡原町製糸会社にては去る廿一日まて右繭の製糸を終りたるを以て同廿二三両三両日間休業し廿四日より本年の新繭製糸を始むべしと
大正時代の原町商況
大正3年7月12日福島日日
祝 御野馬追 広告
相馬電気株式会社 電話二十七番 その他中村
大正3.9.24.祝全国自転車競技大会
福島日日新聞社主催
原町銀行
原町商業銀行
平銀行原町支店
福日T3.12.11.小高町空前の賑
大正3年 小高銀行、小高信託株式会社破産
(小高町史)
第四の金融・原町信託会社の参入
大正4.1.17.福島日日
原町より
◎原町信託株式会社は従来業務閑散を極め余り成績良好とは言はれざりしが年来の相談纏り松永七之助等の引受くる所となり住所も原町一丁目阿部市助氏宅に移転し営業方針を漸次拡張の機運に接したれば将来大に地方財界を補助する所あらん
大正4年ごろの松永七之助商店や松永留之助商店の殷賑ぶりは、瞠目すべきものがある。
福日T4.7.8.原町評判記
4.6.23.鹿島評判記
4.1.25.原町評判記
4.1.29.石神村評判記
4.2.5.石神村評判記
4.7.13.鹿島評判記 小高町色街
大正5年海岸タイムス広告
原町銀行
原町商業銀行
平銀行原町支店
大正5年1.1.広告 原町銀行 原町商業銀行
この年、原町商業銀行は消滅
福島商業銀行小高支店開業
国立百七銀行小高支店開業
大正5年9月3日福島新聞
原商銀合同説
大正7年
一 原町銀行
八 平銀行支店
大正7年 福島日日7.11福島相互銀行広告
7.8.11.原町電気騒動
7.30.相馬電気騒動
8.4.原町電気騒動 東管大疑獄公判 収賄には常磐線開通以来の旧慣
大正8年福島日日
3.6.中村 相馬 磐城 三電合併の熱叫
大正8年 民報
12.19.前小高銀行 重役三名訴えらる 原告は鈴木実業銀行
大正9年
福島日日6.11 相馬銀行破産請求の弁論
名家のスキャンダル 紺野家醜聞
福島日日大正10.8.8.
石神村資産家の倅
海水浴中に溺死
福相銀行原町支店員
ウヰスキー飲んで入水して
相馬郡石が三村長野資産家紺野盛一氏長男一郎(二五)は目下福相銀行原町支店に奉職して居るが五日午後五時相馬郡磯辺浜に海水浴に出掛け潮流に流され行方不明となりしが翌朝午前六時頃同海岸に漂着したるを
捜索隊が発見し遺骸は中村警察署より係員出張し検視の上父盛一氏に引渡されたが一郎の死体は磯辺浜より担架にかつがれて三日午後六時頃実家に到着したが一郎は大正八年東京慶応大学に入学中身体虚弱のため半途退学し其後は実家にあり療養中であつたが再び全快したるを以て家事の
都合上前記福相銀行に就職したもので四日は銀行の方を欠勤して前記の始末に及びたるものなるが死体検視の際想像する処によれば遺留品にウヰスキーの空瓶が散乱しありこれにて判断するに多分ウヰスキーを多量に呷って海に入ったので心臓麻痺を起したのであらうと
8.10.福島日日
福相銀行原町支店員
煩悶の末の自殺
此頃発見された遺書で判明
召使女と結ばれた恋
相馬郡石神村大字長野の資産家紺野盛一長男一郎(二五)が去る四日午後七時同郡磯辺浜に於て溺死したるは誤死なるが如く伝へられてゐたが一郎は相馬中学卒業後慶応大学に入りしも
心臓病に陥って退学し静養中全快したので本年一月より福相銀行に勤むる事となり五月に至り原町支店詰を命ぜられたるもので重役よるも信任は厚かつたがこの程自宅より発見された遺書に依れば一郎は本年春頃から我家の召使女某と懇となり遂に女が妊娠するに至り一方一郎は両親の勧めによつて安達郡油井の
資産家某女を妻に迎ふる事に縁談纏まり近く結婚式を挙ぐる事になつたので煩悶の末自殺を遂げたものである事が判明した
大正11.1.1.広告
原町銀行 電話一番
平銀行原町支店 電話八番
福相銀行原町支店 電話十一番
東京信用銀行原町支店 電話十五番
福島商業銀行原町支店 電話十一番
生糸暴落ショックと操業停止
11.福日
1.19.相馬機業者操業休止を断行 本年初頭に入り、生糸の暴騰
県内銀行は全滅
福島県内では、有力銀行だった福島商業銀行が昭和二年に休業に追い込まれ、大動揺がはじまった。
続いて昭和三年に福島銀行が支払い停止となり、相馬銀行、信達銀行が解散、破産。磐城銀行が休業、四倉銀行が休眠状態。浪江銀行は七十七と合併。安達実業銀行も休業。福相銀行は解散の憂き目をみた。小高商業銀行は新規取引停止。平銀行が休業し浜通りの地元銀行はほぼ全滅した。そして年末には福島貯蓄銀行も休業。白河商業銀行も休眠状態になった。県内銀行の親銀行というべき第百七銀行も休業。本県における金融恐慌のピークを迎える。
昭和四年に第百一銀行新規取引停止。昭和五年、郡山合同銀行休業。昭和六年、磐越銀行破産二本松銀行支払猶予、須釜銀行休業、白河商業銀行支払制限、須賀川銀行支払猶予、新山銀行免許取り消し。
金融恐慌で福島県を代表する銀行がすべて消滅したのは、大戦後の本県金融界が養蚕業の激動で極度に圧迫されたという特殊事情のため、経営内容が悪化したのに、経営者にそれを整理する近代的経営能力に欠けていたからだという。(「福島県金融経済の歩み」)
もう一つ、銀行動揺をことさら烈しくした要因に、県内主要新聞による暴露合戦がある。当時の銀行は政友会と民政党の政党色に塗り分けられており、憲政系の福島毎日と政友系他二紙は、内部暴露や相手方銀行への誹謗中傷を繰り返し、預金者の不安を煽り取り付け騒ぎを大きくした。政争とマスコミのセンセーショナリズム。これもまた日本の恐慌をそのままなぞったのである。
経済復興の突破口を求めて、日本は政党政治もかなぐり捨てて中国大陸に軍隊を送り込み、その後の雪だるま式の戦争への坂道をころげ落ちて行く。その結果を現代の我々は知っている。いつか来た道に迷い込まぬために、その道を振り返ってみた。
昭和初期の相馬地方の銀行群
大正12年福島新聞 原町小学校・土木監督署落成記念式 広告
磐城小高町
株式会社第百銀行小高支店
株式会社鈴木実業銀行小高支店
株式会社小高商業銀行
小高銀砂工場
(原町銀行組合)
株式会社原町銀行
株式会社平銀行原町支店
株式会社福島商業銀行原町支店
株式会社七十七銀行原町支店
株式会社第百七銀行原町派出所
株式会社東京信用銀行原町支店
株式会社第百七銀行中村支店
株式会社五城銀行中村支店
株式会社七十七銀行中村支店
株式会社安田銀行中村支店
株式会社福島商業銀行中村支店
13.民報正月広告
原町銀行組合
原町銀行 平銀行原町支店
福島商業銀行原町支店
七十七銀行原町支店
第百七銀行原町出張所
東京信用銀行原町支店
大正14.1.7.民報
石神村報徳信用組合設立
相馬郡石神村では今回農村振興のため小資本の融通を目的とし報徳信用購買販売組合を開設することとなったが右の勤倹力行の美風を涵養し且つ地方繁栄を図るに機宜を得たるものだといふので同村では百五十円の創立補助を交付することに決定した
大正14年1月
2.28.浪江銀行決算 佐藤慶助頭取 民報
福島新聞
大正14.10.28.門馬氏の新設銀行不認可 他行と合併ならと条件つきて・・・
15.1.1.民報
石川組原町製糸所
原町紡織株式会社
鹿島銀行組合 原町銀行組合
15.1.5.民報
第百七銀行原町派出所 新築成る
相馬郡原町太之助町通りに百七銀行派出所が鉄筋コンクリートで堂々新築せられたが去る十一月七日起工式十二月二十八日竣成移転した設計工事は福島の吉筋工務所で工事の進行は驚くばかり迅速を極めた同派出所は去る大正十年新設せられ矢部弥助氏主任として赴任そ爾来営業状態頗る順調を極めてゐる本年三月矢部氏小高支店長に栄転したので現在は青田氏を主任とし加藤伊達泰の両氏が其の下に忠実に勤務してゐる
大正15年1月27日民報
原町信用総会
相馬郡原町信用組合では廿四日総会を開き各種報告あり組合長遠藤周輔氏辞任につき後任に阿部市助氏を選挙し之に伴ふ理事の補欠は松永七之助監事には今村源八氏を挙げ組合功労者及び勤倹力行者五名を選み左の如く表彰した
村田乙治 久保木綱五郎、後藤留五郎、松本角之助、佐藤金治
福島毎日
大正15.2.6.旧年末の原町 各商店の売出し
15.5.2.雲雀ヶ原に十七人の支那人
15.5.9.満州村
15.6.1.永原 高梁試作
15.8.4.満州村
15.11.9.原町に高梁会社
15.11.11.夕刊 小高町の秋市
15.12.職業別明細図
合名会社 原町銀行
東京信用銀行原町支店
株式会社第百七銀行小高支店原町出張所
株式会社小高商業銀行
株式会社福島商業銀行小高支店
昭和1 平銀行小高支店開業(小高町史)
昭和2 福島商業銀行小高支店閉鎖(小高町史)
福島毎日2.2.5.相馬銀行の救済に就て
民友2.6.14.第百七銀行小高支店原町出張所 電話一五○番
朝日 2.1.9.相馬銀行 大正11年から休業
東京日日2.1.27.
旧歳末の原町 福引き大繁昌
福島毎日7.野馬追広告
第百七銀行原町出張所
原町銀行
七十七銀行原町支店
東京信用銀行原町支店
平銀行原町支店
朝日2.7.21.
小高信用組合 近く具体化
朝日 昭和2.11.2
相馬銀行の建物その他を競売に
朝日福島版2.12.13.
志賀隆明原町町長就任
銀行問題が未整理にある今日
昭和2朝日
七七銀中村支店 予て中村町に建築中の七十七銀行中村支店は落成したので廿六日から営業を開始する
志賀氏受諾
原町町長就任
相馬郡原町町長に当選した商銀原町支店長志賀隆明氏は十二日就任を受諾した
小高信用組合
十五日開店
相馬郡小高信用組合では十四日をもつて第一回払込を了し十五日から役場内に開店することになつたが来る一月中役員改選を行ひ正規の活動を開始するはず
昭和3 小高商業銀行、百七銀行小高支店破産(小高町史)
福島毎日3.4.4.
原町東節約貯金会の預金問題 今猶支払ひをなさず 会員其無責任に憤慨
福島毎日3.4.7.
百七原町派出所 主任の犯罪 東貯金会の積み立て金 を一万七千円費消
朝日3.5.17.小高商業銀行に破産を申請 小高町役場
福毎日3.6.7.七十七銀行支店設置 浪江
民友3.8.14.相馬銀行また紛争
朝日3.8.15.
小高商業銀行 新規取引停止 大蔵省から命令さる
福毎日3.8.15. 原町銀行結局合併か
新銀設立が不許可となり
相馬郡原町合名会社原町銀行(資本金三万円)は新銀行法の施行による資格を具備しないため同行頭取門馬直記氏等は新銀行を設立して此れと合同し株式会社原町銀行となさん計画の下に大正十三年中大蔵省に対して新銀行設立の申請を行つたが当局の意向としては銀行を整理して新設を許さぬ方針である旨回答があつたので結局同行は他の銀行と合併するより他に途がなくなつたが新法規のため信用もあり基礎も固い同行を他に合併することは地方のため惜しいことであるといはれてゐる
(註。のち昭和8年に七十七銀行に吸収合併)
民友 昭和3.8.14.相馬銀行また紛争
福毎日3.8.16. 営業停止されたる小高商業銀行の内容
藤杢右衛門氏一族の経営で預金総額僅か六万一千円
朝3.9.7.
福電業務大刷新 原町工場を廃止して人事大異動を敢行す
原町工場はソーダ・サラシコなどの製造をしていた工場であるが大戦終了後曹達工業の不振から毎期欠損をしてきた福電にとっては厄介なものであった、常にこれが廃止は目論見ていたが何分にも人事関係から急に廃止するわけにも行かなかったが今回断乎として廃止したものである。
昭和3年11月6日民友夕刊
百七の出張所廃止認可 原町 二日付けで
昭和2年 議事録D
一時借入金决議中銀行変更ノ件
本年五月二十八日一時借入金ノ决議中福島商業銀行原町支店トアルヲ合名会社原町銀行ト変更スルモノトス
昭和2年 石神村議会議事録
《書面報告》
福島商業銀行原町支店預金ニ関スル件
一金五百四拾参圓貮拾九銭
村基本財産金
一金弐百六拾九圓
警備費基本財産積立金
右ハ村預金ニ関シ去ル六月十九日本會ヘ報告后別紙ノ通リ休業ヲ継續ノ通知ニ接シタルモ七月十二日村長同月二十六日收入役原町支店長ト會見交渉セシニ何レモ目今整理中ニテ他ニ便宜ノ良策モナキタメ開業ノ時期迄猶豫セラレタキ旨ノ應答アリ然ルニ最近ニナリ又別紙承諾書添付シ照會アリタルモノナリ
※昭和二年八月十五日全會一致ヲ以テ年賦拂ヲ承諾セサルコト条件ヲ付シ承認ス
《別紙》冩
冠省御取引多年ニ亘リ御懇篤なる御引立御援助に預り深く感銘在罷候處乍突然今回帳簿整理の為臨時休業を致すの止む無きに到り御迷惑相懸け誠に申譯無之御宥恕願上候就ては最善の努力を以て整理に相努め一日も早く開業仕り度考に御座候猶整理進行に就ては誠に厚か間敷候へ共皆様方の格別の御同情を蒙るより外無之何分の御配慮賜り度此段御願旁々重ねて御詫び申上候敬具
昭和二年六月十四日
株式会社
福島商業銀行
石神村長殿
拝啓愈々御清穆奉賀候陳者弊行儀臨時休業以来種々御迷惑相懸け何
共申譯無之御寛怒願上候爾来鋭意整理ニ努力仕候も未だ開店の運びに至り兼ね候就ては重ねての御迷惑は誠に恐縮に不堪候得共更に七月二十六日より向三週間休業仕候間何卒御諒承賜り度此間一層の誠意を以て整理に相努め可申猶整理進行に就ては皆様の格別の御同情御援助に依るの外無之何分の御配慮奉懇願候此段御通知旁々重ねて御詫申上候
敬具
追て弊行相談役として十四名を推薦し鋭意整理に相努め申居候間不遠成案を得度存候
昭和二年七月二十二日
株式会社
福島商業銀行
石神村長殿
謹啓愈御清栄之段奉賀上候陳者弊行儀今回休業以来多大の御迷惑相掛け洵に恐縮の至りに堪へす重々御詫び申上候尓来極力開店促進に相努め漸次進捗致候へ共御承知の通り其関係するところ頗る廣汎にして未た尚ほ御満足申上くるに到らさるは何共申訳なき次第に候聊かにても御迷惑を軽減せしむるには是非御得意様方の深甚なる御同情に訴へ御救援を仰き再興の道に進むの方法より他に無之候就ては豫て御預け相願居候預金は左記條件を以て御認諾相願ひ茲に一切の凖備相整へ一日も早く開業の運びに致度存念に御座候誠に申上兼ね候へ共斯の如き御寛大なる特別の御諒解を賜るに非らされは總てに支障を来すことにも相成可申候間何卒事情篤と御諒察の上此儀曲けて御承諾被成下度幾重にも奉懇候幸に御承諾相叶へ申候はば末尾の承諾証へ記名御調印至急御返戻御
願申度此段御願旁々得貴意候
敬具
小口預金(金百円以下)公共團体其他之に凖する預金者にして基本金及之に類する預金を除きたる預金の三分の一は開店と同時に支拂へ残額は無利子向ふ二ケ年に割賦拂戻すこと
昭和二年八月十日
株式会社
福島商業銀行
石神村長殿
公印 承諾證
拙者儀豫而預入致置候預金三分ノ一ハ貴行開店ト同時ニ受領シ残額ハ無利子ニテ向フ二箇年割賦拂定期預金ニ振替ヘルコト異議ナク承諾候也
昭和二年 月 日
住所
姓名
株式会社福島商業銀行御中
昭和3年 石神村議事録
《報告》
福島商業銀行預金拂戻延期承諾證ニ関スル件
豫而報告致置候福島商業銀行ヘ本村警備費基金貮百六拾五円也預金昨年十一月中左記ノ通リ承諾書提出置キタルヲ以テ御承認アランコトヲ
記
承諾證
拙者儀豫而預入致置候預金ノ三分ノ一ハ貴行開店ト同時ニ受領シ残額ハ無利子ニテ向フ貮箇年賦割料定期預金ニ振替ヘルコト異議ナク承諾候也
昭和二年十一月三十日
住所 福島縣相馬郡石神村
姓名 村長大和田長治郎
昭和4年 議事録
E
《口頭報告》
一、福島商業銀行引續キ休業ニ付村警備費基本財産金二百六十五円ノ預金未回收ノ件
昭和4年民友
3.16.相馬銀行和解す 破産申請取り戻し
福島毎日
4.5.20.原町信用組合委員指名に非難
昭和4.民友 広告
原町銀行組合
祝相馬妙見社大祭
祭典委員長 志賀隆明
高平村長 村田忠蔵
石神村長 大和田長次郎
大みか村長 今野義意
日本無線
福島電灯
原町紡績
石川組製糸所
原町銀行
常磐銀行原町支店
七十七銀行原町支店
東京信用銀行原町支店
4.5.23.民友
原町信用組合 臨時会紛糾
原町信用組合では去る十六日臨時総会を開き役員総辞職による改選を行った処監事菅頭宗治を新選したる外何れも再選したので去る十八日理事会を開いて専務並に組合長の互選を行ったが意見容易に一致せずして流会してゐたのに一部の役員連中は勝手にも町民から嫌恐されてゐる矢部氏を控さんとした事が温当でないとの事から役員間に一不満を抱くものあり辞表をほのめかしたので是等を種に総辞職を行しめ役員の顔振れを替んものと計画するものあり兎も角一波乱は免れざる模様である
福毎11.23. 中村町でも秋市を開場
福毎12.3. 富岡町恵比寿講市のにぎはい
民報4.11.15.一人一銭の貯金 高平組合の計画
4.10.1.石神の信用組合 役場の向かいに地鎮祭
4.11.11.小高秋市 不況に終わった
4.12.2.原町の秋市終る
4.12.3.不景気打開に原町発展策を有志寄々談合す
福毎12.18. 原町御大典記念貯金 好評を博す 一日一円で五年
昭和4 平銀行小高支店閉鎖(小高町史)
大正15年に開業の後、合併して常磐銀行として定着を図ったが、ついに原町にひきあげた。 昭和5年から終戦まで小高町には銀行が存在しなかった。(小高町史p567)
民友5.2.1.野村商店の裏切り
民友5 祝 相馬妙見神社大祭
原町銀行協会
常磐銀行原町支店
七十七銀行原町支店
原町銀行
福島毎日
11.19.小高の秋市
11.25.原町の秋市 原町の農産品評
11.28.浪江町の十日市
12.9.原町の秋市 近時にない盛況 開市の歴史は浅いが
昭和5年石神村議事録 E11
一、元福島商業銀行ヘ村警備費基本金預金第一回
配当元利金ノ百ノ二・七
金八円十五銭配当アリタル旨報告ヲ了ス
昭和6年
福島毎日6.1.29. 原町信用組合総会
民報6.2.18.原町貧民救済の餅つき
民報6.7.3.原町信用組合いよいよ質屋開業
民報6.8.8.原町信用組合の動産担保貸付大繁昌 係員汗だくの活動
民友 6年8月20日
銀行法の処分は磐実原町の二行 原町銀行は結局合併か
昭和7年 七十七銀行の参入
この年、七十七銀行原町支店開業 七十七銀行史
7.6.16. 湯本無尽 (福島銀行の前身)相馬郡原町松永町7番地に出張所開設許可
福島銀行70年史より
民友広告 合併発展
株式会社常磐銀行原町支店
合名会社原町銀行
民友7.9.7.養蚕組合成らず
民友8.1.6.
原町銀行 七十七銀行支店に
四日より開店
相馬郡原町合名会社原町銀行は本年より実施の新銀行法によりその成行きを注視せられてゐたが昨年末仙台七十七銀行と合併成り両銀行頭取連名でそれぞれ関係筋に通知状を発したがいよいよ従来の原町銀行営業所を株式会社七十七銀行相馬原町支店として面目一新一月四日より開店したので地方金融業者より好感を以て迎へられてる
民友8.1.30.相双税収不振
民友8.1.13.生活苦に喘ぐ 中村
民友8.7月 野馬追広告
常磐銀行原町支店 電話四八番
民報8.7.11.野馬追広告
祝 相馬野馬追祭
日東製糸株式会社磐城出張所
常磐銀行原町支店
民友9.3.31.
高平の信用組合は紊乱
民友9.広告
役場 信用組合事務所新築
小学校増築 落成式
高平信用購買販売利用組合
組合長 紺野栄
外 役員一同
9.7.12.民友
野馬追広告
株式会社七十七銀行相馬原町支店
株式会社常磐銀行原町支店
10.5.30.民友
相互利用組合
賃金労働者
相馬郡大野村に生る
民報10.7.野馬追広告
祝 相馬野馬追祭
原町銀行組合
10.10.9.原町短波 凶作 不作 半作
民報10.11.8.湧く前景気 原町の秋市
11.4.22.民報
花の綻びを他所に
突如・四百名を解雇
原町の磐城田中製糸工場
去就に迷ふ女工さん
12.5.9.民報
原町田中製糸 片倉で経営決る
今井社長等視察
12.7.野馬追広告 報
郡山無尽株式会社 中村出張所
昭和13年
8.20.原町短波 日本酒精会社その後
8.21.南相たより
8.21.原町短波 雑貨店商業組合
13.7.10.友
三年間に三十円 中村信金の国貯奨励
13.7.11.民報 湯本無尽株式会社中村会場
13.6.2.原町方部蚕況
13.6.11.夕 原町の商人大喜び 高倉鉱山業
昭和14年
2.5.高ノ倉鉱域に 新しい鐵会社
14.2.24.相馬郡に専売局出張所 原町か中村に 東京日日
14.3.8.金を政府に売りませう 東京日日
14.3.11.金献臨時取り扱い 原町十七日に
14.7.11.友 福島貯蓄銀行 中村代理店
民報14.7.12.野馬追広告
中村中小商工互融会
民報15.7.11.野馬追広告
福島県相馬郡原町旭町
株式会社福島無尽金庫原町出張所
所長 菊部賢徳
電話二二○番
野馬追広告15.7.11.友
中村町田町(電六一)
福島貯蓄銀行 中村代理店 岡和田安弼
七十七銀行 中村支店
16.7月
旭町七 福島無尽金庫 原町出張所
相馬郡原町南新田字町十三
原町地区商業組合 電話五八番
17.8.18.大東相互銀行原町支店の前身が、原町大字南新田字町22番地に出張所を開設
同日、浪江支店開設
民報19.1.31.中村信金懇話 2.22.総会
19.2.13.南相貯金会議
20.2.16.竹供出で四十万円を 児童貯蓄
20.3.17.原町も倍以上、国民貯蓄
戦後のはらまち金融
民報21.3.4.常陽小高支店が開業
東邦銀行
25.7.1.東邦銀行原町支店 開設
38.5.14.店舗改築
61.3.17.東支店 開設
平成14.4. 東支店を廃止
福島銀行
25.7.17. 福島銀行原町支店昇格
29.3.20. 原町市南新田南東原7番地に市制施行により住居表示変更
36.2.1. 現在地に住居表示変更
福島銀行40年史
労働金庫原町支店
昭和28.1.10. 労金原町支店 開設 福島県労働金庫40年史より
原町市制施行29.3.20.民友
県会議員田原徳
相双商工会議所 会頭松本欽一
原町市公民館 館長阿部信義
原町営林署 署長金沢深
相馬郡養蚕農業協同組合 会長田原徳
原町土木監督所 所長荒川只三
原町紡織株式会社
丸三製紙株式会社 神山広
相馬酪農協同組合 組合長佐藤登
原町たばこ販売協同組合 鳥居喜四三
平和貨物自動車株式会社 渡辺武雄
原町金融団 常陽銀行原町支店・七十七銀行原町支店・東邦銀行原町支店・福島相互銀行原町支店
大東相互銀行原町支店・原町信用組合
原町旅館組合 組合長太田弥兵衛
原町信用金庫
36.12.30.信金原町起工式
田原 徳 県養蚕連会長 ・明治38年1月3日 ・昭和35年12月22日 ・・原町市深野 ・「福島百年の人々」「原町市史」「蚕糸の光」 昭和8年県蚕業学校卒。良く9年には早くも浜3郡蚕種組合長に就任して、蚕種の改良と養蚕業の発展に尽力。22年県議に当選して政治家としての第1歩をふみ出す。26年・30年と連続当選。この間監査委員、経済委員会委員長などに選ばれて、県政の進展に活躍。また23年、石神村深野第1養蚕農協理事に選ばれて以来、相馬郡養蚕連会長、県養蚕連会長、全養蚕連会副長、中央蚕糸協会副会長、前項養蚕信用基金協会理事等、さらに県農業会議会長、全国農業会議副会頭などの要職をつとめた。昭和33年の蚕糸業不況のときには政府・国会に猛運動して200億を投入させるなど、持ち前の政治力を発揮して、蚕糸業はもとより、農民を守る農政を推進した。p310