はらのまち繁盛記

原町は古来、宿場町であった。原っぱの中の一本道に集落が誕生した。城下町でもなければ門前町でもない。とすれば、明治以降の近代になって農村を背景とした商業の町であり、ますますその町の特色は商家の町に特化され、ことに常磐鉄道の開通によって機関庫の設置で発着駅となった原町は物産の集積地として工場誘致と労働人口の集積が進むに及んで、商業もまた活況を呈するようになる。本章では、商業と景況にスポットをあてた同時代の新聞資料その他の資料によって俯瞰してみる。

火事の中から誕生

戊辰戦争で相馬藩が敗走したとき、仙台藩兵が宿駅を焼いて北上して逃げた。わずかな家並みは燃え尽き、復興して明治の時代になって最初の試練はまたもや火事だった。明治十四年に中村が大火で焼けた。するとつづいて翌年原町も大火に見舞われた。焼け残った半分の町並みが、その翌年また焼けた。

明治初年まで戸数125戸 長さ700メートルの一本町

慶応4年3月5日写す
絵地図
8月2日 原町宿が兵火で焼失。
8月4日 中村藩降伏

明治4年
廃刀令

明治5年
野馬が狩り尽くされる
12.2.人身売買に禁止令
12.3.太陽暦に移行

明治6年
郵便取扱所
小学校が出来る。

明治7年
商家は松本、門馬の二軒のみ。

明治8年 野馬追に官許

明治9年
福島県誕生

明治10年
西南戦争起こる
中村警察署の分署が南新田村に設置

明治11年
第一回県会

歴史資料館では、明治十二年一月一日調べ日本全国郡区分人口表というものがあり、この中に行方郡五十村男女合計二万四千九百五十五人という記載がありました。

明治12年
郡長大須賀次郎「巡村雑記」
産馬、養蚕、抄紙、大茶畦、鰹船、鰯の地引、春冬は立網を行う。

明治13年
岡田健長、県議会副議長に

明治14年
第一回農会

明治15年 はらまち大火
2.12.   200戸焼失 本町84戸 353棟 火元、青年学校

明治16年 はらまち大火
1.4.   23戸焼失

明治17年
加波山事件

明治19年
行方郡 戸数5594 人口40091人

明治20年
戸数  人口
原町  433  2450
高平  323  2531
太田  451  3912
大甕  313  2702
石神  586  4113
計  2106 15708

明治21年
福島県米麦蚕種繭生糸共進会受賞者
明治22年
町村制で南新田村と渋佐村が合併して原町村が誕生
人口    戸数
行方郡 石神村4316  683
大甕村3742  464
太田村2951  382
高平村2609  329
原町村2579  413
宇多郡 中村町5610  946

明治24年
露国東宮殿下遭難

明治25.8.16.行方郡原町通信 芝居座できる
8.25.哀れなる最後 中村
8.26.行方郡小高町近況
9.7.原町通信
9.8.郡長大いに吏員を戒む
9.8.原町における大槻氏 非吏党の西郷伯招待準備
9.11. 行方郡小高町近況
明治25年9月15日 民報
原町近況  当地における本年の盆会は平年に比して一層の賑わいなり。蓋し生糸の高値なりし為の意外の収入を得しと二百十日も無事に経過し早や中晩稲共残り少なく穂をかため此后多少の風雨あるとも先つ大害なきに至り豊作万作疑いなきを祝し万民鼓腹の時期に際せしを以て特に盛を極めたり。且つ盆踊りは二ヶ所ありていづれも賑やかにて男は女と化し、女は男と学び異装百出奇々妙々叩く太鼓の音も面白く踊る舞踊の拍子も可笑しく若者連の得意、炎熱、裏に終日硯を弄する記者諸君杯の夢にたも知らざることなるへし○当地小学校職員の品行に就いて面白からぬ風説のみ多く気概ある者ハ悲しむべきの至なり。或る授業生ハ或る白首と乳くり合へりとか或る訓面白からぬ風説のみ多く気概ある者ハ陰刀に腕を扼しおれり学校教員を挙げて書く。(画く)
然りと云ふにハあらされども一犬虚に吠えて万犬実を伝ふるの世の中教育社会特に児童教育の任にある当事者諸君ハ宣しく三省せられた者なりと生徒の父兄等は言へり

明治26年
1.7.中村新年会
1.8.目黒重真氏 常磐鉄道の請願委員
2.10. 行方郡小高村通信(承前)
4.28. 行方郡小高村通信
5.3.中村瑣事
5月30日 行方郡原町通信
明治26年6月16日 小高通信
明治26年6月30日 小高近況

7.18.石神改選
8.4.富岡雑報 鹿島通信 宇多行方郡近況
8.9.相馬事件の人気
8.30.原町における相馬事件演説会
9.10. 行方郡原町共進会

明治26年9月20日 民報
○行方郡原町近況  戸数八十戸人口千九百余内呉服太物商五戸 酒造家四軒 醤麹四軒、小間物荒物商十五軒、飲食店十六店、旅人宿七軒、菓子店九軒、魚店六軒、医師四戸、大工職十二戸、染屋三軒その他の雑商七十軒、殊に飲食店の多き相馬に冠たりしたがいて酌婦と称するもの七十五人あり風俗の日に破壊する驚くべし地方の有志及び警官ハ評判如何の感を抱き居るや
○小学校ハ市外の北端に在り在学生徒五百余教員二十一人高等校長中村氏ハ評判可ならず品行修まらさるとの説あり且教員の中には彼の酌婦に戯るるものありと聞く少しく注意して可なり(後略)。

9.21.浜通りの停車場争ひ
11.12.兵士送迎 高平

明治27年民報
日清戦争起こる
4.19.松本孫右衛門逝く
4.25. 行方郡宇多郡医師会
5.2. 行方郡鹿島地方近信
5.10.相馬中村町近況
5.24.小高の商況と漁況
6.6.小高村 蚕況 宇多郷
6.8.孫右衛門改名広告
7.29.日清戦争開戦
10.23.小高村戦勝祝宴

明治28.9.13.民報
〇相馬地方の豊作  近日相馬地方を巡回せる本社員よりの通信に依れは同地方の稲作ハ非常の好況にして稲は早中晩共悉皆実り早稲の如きは刈取りても差支無き程と為れり地方実業家の話を聞くに昨年よりも却りて増獲あるへしとの事なり去れハ人気も自然に引立ち一段に好況を現はせり中村原町、小高等は料理店貸座敷等非常の盛況なり

明治29年2月11日民報
商況 旧節季の為めに人足繁く稍々(やや)景気を添え来れり売買の最も多きは荒物屋五十集屋にして殊に塩引類の売れ方は活発なるが如し、料理店及び貸座敷 料理店の最と不景気なるに引き代へ貸座敷は非常の繁昌を極めつつあり

明治29年2月27日民報
○原町の旧正月 行方郡の同村下町若連中ハ旧暦正月に入りて大に豊年を祈らんが為め田植踊を催す事となり過る頃より毎夜原町座に於て下稽古をなし明十四日を開始として町内の重なる家々に就き其手踊を催すといふ尤もこれを為すに就てハ少なからぬ祝儀を貰ひ受くる事なれば慰労会等の雑費を差引き余剰金は原町村戦勝紀念碑に献金する筈なりといふ

明治29年3月15日民報
○原町通信  明教生命保健会社にてハ被保険人募集の為め此程当地に社員を派遣し佐藤徳助氏に代理店を依托せしが爾来申込人十二三名あり社員ハ明日小高方面に出張する由

明治29年5月7日民報。
○原町近況 ○戸数人口 近年戸数の増加すること年一年多きを加へ去る廿三年に在ては二百五十余戸に過ぎざりしも現今は五百二十余戸に及び人口亦随て増加し今や殆んど四千に及べり此分にて押し行かば未だ数年ならずして一小都会を成すに至るべし
○商況 農業繁忙の季節に罹り在方人出少なく一般の商況は至て沈静の姿なるが此間に在て独り盛況を極め居るは肥料販売商店なり而して右商店の重なるは村田松蔵(角平)杉利衛門の二軒にして日々当町に輸送し来る肥料は荷馬車十五六輌の多きに及べとも尚不足を告くるの有様なり之に次て景気の好きは酒屋なるが這は各所に凱旋軍人歓迎又ハ慰労会等の盛なるに依る而して酒屋中最も勉強なるは丸十、丸捧、丸捧、等にして造石高の多きは丸泉(八百石以上)なり

6.20.原町野馬追祭

明治29年7月19日 相馬郡原町通信
当地は近年発達の土地なるも戸数人口は頓に増加し最近三四月以来は一箇年平均戸数五十余戸つゝ増殖の割合なり故に市中の繁昌ハ日に月に加ハり漸次中村町を圧するの勢あり(中略)
海岸ハ数日来松魚の大漁ありて市在ともに相応に賑はへり、停車場は市街の南方凡そ五六丁の所に設くことゝなり、其構内の規模も中々広大の設計を成す由、新設貸座敷ハ非常の繁昌にて僅か三戸のみなるも妓数ハ三十名程あり当地名物の淫売婦は一時百余名の多数ありしか貸座敷新設以来は自然淘汰により追々其数を減し目今ハ僅か五六名の残物あるのみ芸妓も従来は概ね淫売兼務の為め中を盛なりしか是又四五名を残すに過きす左れは当地の識者は何れも淫売駆除法には公娼を置くに如かすとの輿論に傾けり

明治29年「磐城国名家集」

太田村 385戸 人口3144 男1633 女1511 村会議員12 県会議員選挙有権者291 134 5272円98銭7厘
高平村 330戸 人口2722 男1395 女1317 村会議員12 県会議員選挙有権者165 衆議院議員選挙有権者118 地租4650円31銭
大甕村関係 462戸 3900人 男1956 女1944 村会議員11 県会議員選挙有権者340 衆議院議員選挙有権者166 地租5854円3厘
原町村関係 戸数416戸 人口3038人 男1556 女1482 村会議員11 県会議員選挙有権者56 衆議院議員選挙有権者26 所得納税者13人 地租1900円余
石神村関係 戸数573戸 人口4405人 男2249 女2156 村会議員12 県会議員選挙有権者295 衆議院議員選挙有権者151 所得納税者2 全村地租金高7224円58銭

明治30年
9.18.原町村から原町へ
原町の戸数520 男1745 女1669 計3414 福島県統計書
中村駅開業

明治31年 鉄道記事中心
明治31年福嶋新聞
3.2.広告 宿痾再発ノ気味ニテ入湯ニ出掛ケ十五六日間不在仕候間此段知己諸君ニ謹告ス 三月一日 半谷清壽
3.2. 小高同盟倶楽部発会式
3.11. 相馬進歩党と自由党
3.11.  日本鉄道 正副社長の辞職
七日引責で
3.12. 相馬郡教育者の不平
3.19. 案外なるは第五区の結果
3.19. 日本鉄道株式会社広告
去る三月廿一日ヨリ土浦線並ニ磐城線列車発着時刻改正致候事
4.2. 中村原ノ町間開通
4.3. 広告 日本鉄道株式会社
磐城線中村原之町間線路落成致候間来ル四月三日ヨリ営業開始致候事
尚停車場ハ鹿島、原ノ町ニ設置ス

4.4. 欠
4.9. 老婆の轢死 柴田勝房の継母
4.16. 真野川に溺る
4.16. 相馬中学位置争に就て
4.17. 日本鉄道株式会社 広告 毛利重輔社長

明治32年
6.25. 常磐線の運賃値上げ
6.25.相馬野馬追大祭
6.28. 野馬追祭の案内
6.28.  野馬追祭を思ふ 在京 かげつ庵

明治33年
5月

33.3.1.民報 原の町市場
6.30. 野馬追祭案内
7.4. 相馬野馬追祭 一日 二日
7.4. ラム酒一手販売 東京麦酒代理店 原ノ町の賑日
33.7.27. 海水浴場の新設
この年、原町共立病院できる。
33.7.27. 原の町雑信
◇市中の景気は、生糸の期節で繰車の音絶えず金融もいいが、雨天勝ちで氷屋は気の毒
◇花柳界は、妓楼三軒に妓数三十名ほど、小泉楼の光子評判。料理店・飲食店にも相応の客

33.7.28. 原の町共立病院開業の広告
33.9.20. 原町病院雑事
9.26.夜の森公園開設の記事。東宮大婚記念公園として。
6.28.請願書提出。8.18.聴許される。
この年、渋佐海水浴場が整備される。
この年、夜の森公園ができる。
この年、天理教原町教会開設。(相馬郷土誌)

明治34年
2.16.佐藤町長の祖父病死
4.25.小高だより 鈴木余生
5.22.相馬郡鹿島町通信
7.30.渋佐浜海水浴
8.31.原町の盆三日
9.3.原の町の二百十日

10.8.相馬郡石神村近況 小沢村長
11.19.小高銀行株主総会
明治34年11.28. 相馬郡小高妙見神社下染屋息子は女郎は買う芸者でも下婢でも手当り次第

明治35年
4.11 小高町より
4.20.道路問題の紛擾
4.22.相馬郡新館村便り
5.18.小高町蚕況
5.10.夜の森公園
5.21.石神二小 浮世のぞき
5.30.原町通信
8.1.原の町通信 日々の雨天にて氷屋は見るも憐れの有様なり
8.19.原町病院の新築と移転
9月 原町通信 警察分署 三島神社祭礼
9.9.相馬郡太田村通信 人気は一般農民の厄日として危み居たる二百十日
9.12.渋佐日記 9.14. 9.16.
11.5.太田村稲作収穫予想

この年、東北大凶作
35.6.28. 佐藤徳助、野馬追唱歌を出版

明治36年
7.5. 友 野馬追(一)余生
9.26. 常磐線全通
10.10. 実業補修校の近況
11.7. 相馬小高特信 絹織物組合臨時総会
11.3. 天下泰平録 小高町の半谷清寿
11.29. 相馬軍人くらぶ 相馬子爵の来県
11.21.相馬郡の鮭大漁
12.2.小高特信 相馬順胤公小高品評会に御下に相成り
12.3. 小高町二重品評会
12.12.富岡町通信 小高実業界の飛躍 上 久保小蘇
12.13. 小高実業界の飛躍 下 久保小蘇
12.19. 鮭漁育種場視察 浜須安記

この年、相馬農業の前身、原町実業補修学校が原町小学校に設置。

明治37年1月28日 民報
○相馬郡中村町近況  昨年の豊作は一昨年凶作の瘡痍を医するにも足らず昨今米穀出盛の為め人気少しく引立ちしやの観有れど日露問題の低気圧は商界を圧し旧年末にも拘はらず金融緩慢市況一般に沈滞せり▲南相馬の産業界には熱心なる半谷清寿氏有れど北相馬なる中村地方の人士は甚だ起業心に乏しく一両年前迄錦織、浜名、佐久間等諸氏が率先して奨励せし羽二重も遂に成功を見ず今日にては該業を継続するもの一人も無き有様なり

37.2.17. 中村町提灯行列 友
37.3.18. 原の町の提灯行列 友
37.4.3. 戦勝祈祷会

日露戦争と凱旋門

日露戦争のとき、原町本町の辻に凱旋門が立った。戦勝を祝う飾りに町民が群がっている一こまだが、子供にかぎらず人々は着物姿であり、洋服は巡査と鉄道員ぐらいのもの。
早々と戦勝パレードが行われた記事がある。原町では芝居興行に来ていた俳優が軍服を着て歩き、これに鉄道員が海軍将校に扮したという。もともと鉄道の制服は海軍軍服を模したもの。
明治37年2月17日民友。
〔○中村町提灯行列 相馬郡中村町にては役場の通達により各家より一人つつ出で去る十三日午後五時より提灯行列を組織し各町を巡り消防組にて模造せる軍艦に警察署長及部長並びに消防組頭等乗込市中到る所歓呼し今回召集せられし軍人の家前に到れば萬々歳を祝し出列人数実に一千五百人の多きに及べり〕

つづいて原町でも、これに倣って提灯行列が行われた。明治37年3月18日民友。
〔○原の町の提灯行列 去十月旅順口に於ける我戦捷を祝せん為め十五日原の町に於て盛大なる提灯行列を為したり同消防手の意匠に成れる擬造軍艦二隻に満艦飾を施し之に無数の球燈を吊下し午前八時頃より消防手学生及町民等三島神社前に整列し提灯各一個を携ひて町内を練り歩きたるが万歳歓呼の声は祝砲及音楽隊の声と相応して天地を振動する程にて勇しなんと云ふ許りなし同日は目下興行中の壮士俳優軍服を着して之に従ひ殊に停車場駅員数十名が海軍将校に扮して一行に加はりたるは頗る偉観なりしと〕
また、4月3日には「戦勝祈祷会」が、原町の新祥寺で行われた、とある。
〔○戦勝祈祷会 相馬郡原町新祥寺に於て去三十一日渡辺六尺氏発起となり僧侶十数名を招き盛んなる戦勝祈祷会を行ひたり▲相馬郡新地村字小川二羽神社神宮小野八十松氏は三月九日より三週間昼夜同神社に於いて両陛下の万歳陸海軍万歳並びに出征軍人戦勝祈念祭を執行満願当日には出征軍人家族へ守護札を配付せり▲相馬郡石神村大字押釜高座神社にては地方の神職数名相会し去月三十一日皇軍戦勝の祈祷祭を執行せしが当日は早朝先づ祭壇を整ひ佐藤祭主の祝詞及宣戦詔勅の奉読村長各区長の玉串献上終って小沢村長の発声にて天皇陛下陸海軍万歳を三唱し尚二三氏の演説ありて散会したりと〕

37.2.18. 半谷清寿の檄

37.11.26. 原町実業学校について

7.15. 相馬野馬追祭 常置通信員
7.19. 野馬懸(続)

明治38年
7.14. 野馬追祭り(一日目)
7.15. 野馬追祭り(二日目)
7.16. 野馬追祭り管見記(一)渡辺磐城
7.18. 野馬追祭り管見記(2)渡辺磐城
7.19. 野馬追祭り管見記(3)渡辺磐城
7.26. 機業工男女奨励会

この年、35年につづき東北大凶作

明治39年
7-12月欠落
5.17.相馬中村町通信

11月平銀行原町支店開業。

明治40年
1.16.原町製糸合資会社 創立計画
10月 相馬機業会社開業
12月 酒本製造工場 酒本喜代松 製版
郡立相馬農蚕学校になる

明治41年 福島新聞
9.18. 相馬中村通信 相馬地方の稲作況 野馬追準備
9.23. 中村行啓
9.23. 行啓前の原町
9.25. 原町の殷賑雑踏
9.25. 相馬中村より 第一信 行啓前の中村
9.25. 双葉郡富岡より
9.26. 相馬中村通信
9.29. 台覧野馬追 如何に壮観を極むべきか
9.30. 相馬子爵以下の熱誠
41.10.1.~12.31.欠落

明治41年皇太子の野馬追台覧

明治41年の新聞は秋になると、皇太子(のちの大正天皇)の東北行啓が福鳥県に近づきあるため、連日のようにその様子を報ずる、福島県内では色々の歓迎行事が予定されているが、原町では10月8日に臨時野馬追が挙行されることになった。十月に入ると、準備は秒読み状態で、日増しに報遺の筆も緊張と興奮が高まってくる。そんな中から原町関係の記事を次に紹介する。
(この日の号には行啓記念の全面広告があり原町関係の企業が並んでいる)
41.10. 佐藤ひげ郎 観艦旅行
「原の町野馬追の晩は、ごろ寝が五十銭で食わせて九十銭だと云ふ事で」

41.10.27. 新田川の鮭漁

明治41.12.12.民報 相馬郡の機業界
明治41年 この年、高平村、大田村、報徳信用販売組合等できる。(相馬市年表)
この年、石神村の相馬冷蔵庫株式会社開業(相馬郷土誌)(相馬市年表)
この年、佐藤政蔵「はらのまち」を出版

明治42年福島新聞
3.10. 新田川鮭卵孵化成績
3.16. 小高ピアソン氏歓迎会
3.19. 小高町より
4.17. 原釜漁況成績
42.3.16. 民報
○小高ピアソン氏歓迎会
4.11. 模範窯業所設立
8.5.韓国皇太子が東北巡幸の折りに原町駅に停車。臨時野馬追を行う。
10.28. 10.26.に安重根、伊藤博文をハルピンで射殺

この年、原町の麹製造会社開業

明治43年

民報7.20. 原町の印象
海岸雑記
新開地――之れ原町に入りて第一の印象なり、停車場を出て本町に至る数町の間黒土の道路の両側に旅館、運送店、料理店、雑貨小間物店、果物店、機業工場、製材所、床屋等軒を連ね、其背後には鬱蒼たる松、柏の緑樹繁茂して往古の雲雀原の片影を残せる間に煙突の煤煙むらむらと立昇り、エンジンの響、汽笛の音の轟くなど、野趣あり生気ある町の態他には見られぬ図なり。
此間の町名を旭町、田之助町(太之助町)といふ、田之助町は其町全部の土地を所有する人の名、旭町は新進発達の象徴、共に新開の町に見るべくして又一面原町の元気を表示するもの也

明治43年 上洛野馬追
4.17.民報 上洛野馬追記 志賀擬山
4.18.民報 上洛野馬追雑記

明治43年 モシモシ電話開通して商売繁盛

「騎馬武者百五十 東都に推し登らんとす」の記事に見える明治43年の上洛の馬追について続ける。筆者は擬山という記者である。
桜田門外の変、と呼ばれる大老井伊直弼の暗殺からちょうど50年。安政の大獄という大弾圧に対する、反幕府勢力のカウンターパンチである。日本の近代化への扉を大きく開けた事件であった。彼ら西軍は、これを引き継ぐ形で倒幕運動を進め、ついに新政府樹立を果たし、欧米列強に伍して近代国家の基礎を固めつつあった。武士の支配する農村国家から、富国強兵によって軍備をととのえ、日清戦争、日露戦争を経て、ようやくのことで革命の半世紀をふりかえる時期を迎えた。
桜田十八烈士の五十年記念祭、という一大イベントが企画され、そのアトラクションに、2年前に皇太子が巡啓した相馬野馬追祭が抜擢、推薦されたのである。
明治41年の皇太子巡啓と台覧、42年の韓国皇太子の下り列車原ノ町駅一時停車による臨時野馬追アトラクション台覧という栄誉を誇り、このうえ全国に相馬野馬追祭を知らしめようと焦慮する郷土の人々のもとへ、今度は首都東京での実演の呼び声がかかり、郷党は狂気し小躍りした。
「洛」とは京都の意である。上洛とは従って「京の都に上る」の筈だが、明治43年の「上洛野馬追」とは、「遷都した東京への上京野馬追」の意味であろう。かくして、ついに史上初の野馬追祭の出前、天皇のお膝元・東都での野馬追が実現したのである。(「はらのまち100年史」1997)
4.17.民報 上洛野馬追記 志賀擬山
今二日旧三月三日東都靖国神社に行わるる彼の万延元年時の大老を桜田門外に倒せし桜田十八烈士の五十年祭典葬祭土方伯以下の懇望に依り相馬野馬追祭典の出馬の有志百五十に限り甲冑に身を固め騎馬に打ち乗り遙々東都に推し登りて十八烈士の霊前に参拝する事となりたり今其趣旨其他を聞くに由来相馬旧藩は其学派を水戸と同うし維新の際の如きは藩士西貫之助を始めとして所謂水戸浪士と行動せしものの少なからず又勤皇の大義を唱えて各藩を遊歴し異郷の空に客死せしもの三十余名に及び」うんぬん。
「而して右出馬方に就いては佐藤徳助、半谷清寿、藤崎重行、遠藤六之助、佐藤政蔵其の他の諸氏専ら事に当りて奔走し四月二日」「諸氏原町停車場前丸屋旅館に集合して万般の事を協議したるが総裁より贈らるる可き筈の手金などは辞退し汽車賃宿泊料の外は一切自弁を以て出馬し誠意誠心十八烈士の霊を慰むるに努むべく申し合ひをなしたり又東京に於ける動作を聞くに百五十の相馬武士は十一日原町一番の上り列車に搭じて上京し上野停車場前山城屋、名倉屋に分宿十二日早朝甲冑武具を固め上野不忍池畔に勢揃ひをなし馬場の周囲を乗り廻し更に行列を整ひて上野広小路を真直に万世橋、須田町、小川町を経て靖国神社に御参拝夫れより二重橋前に至りて薨去を拝し更に幸町なる旧主相馬子爵家に至りて旧君に謁しここにて馬を乗り捨て特に之等相馬武士の為めに設けられたる二十台の花電車に乗じて東京市中を練り廻す由なるが実に今回の祭典中第一の壮観たるべしと言ふ左に行列順序を掲ぐ(略)」
因に今回の出馬希望非常に多ければ中村、原町、小高の各地に於いて目下武具其の他の検査選抜を行ひつつあり」
4.18.民報「上洛野馬追雑記」など、これらの記事は、原町出身の志賀儀三郎が民報記者として同行取材している。志賀千代蔵と兄弟で民報社に勤めていた。原町はホームグラウンドのようなものであり、野馬追を紹介する筆にも力が入った。この年、原町に電話が開通し、大いに商売が繁盛した。有名なハレー彗星の大接近の年にあたり、世界中が世界の終わりだと騒がれた。明治43年とは、そんな年だった。
▲参考 志賀擬山(しが・ぎざん)原町生まれのジャーナリスト。本名志賀儀三郎(しが・ぎさぶろう)
福島民報は現在まで存続する福島県内で最古の新聞であるが、創刊当時は経営困難のためたえず廃刊の危機に見舞われていた。これを救ったのが旧相馬藩(南新田村)の名家に生まれた松本孫右衛門だ。代々襲名する名で、藩主から功により特別に酒造業を許された家柄。松本仙蔵を父に明治六年生まれ。幼名を碩蔵といった。東京物理学校に学んだが、父の死去により帰郷。浜通り地方は常磐鉄道開設の景気に湧いていた。土木業に開眼して鉄道工事で成功。その財力をみこまれ請われて倒産寸前の民報社長になり、見事に立て直した。明治三二年に主幹として迎えられ、三三年に二代目社長に就任。個人経営とし、同郷の後輩でのちの原町町長松本良七(亀井文夫監督の父親)を主幹とした。自由党政治機関紙であった民報を商業紙に改革した。無料配布していた株主からも購読料をとり、県報を請け負って刷り込むなどの営業努力によって収益を上げて実績の実をあげ、その手腕が評価された。三星炭坑社長などの事業家と政治家の二足の草鞋で成功し、町会議員・県会議員をつとめ、政友会が旗揚げすると代議士となり、自分の子分を応援して交互に出馬するなど気配りの人だった。政友会院内総務までつとめ、昭和二十三年死去。
大正期の一時期、松本社長の代理をつとめた副社長志賀千代蔵も同郷原町の後輩。それまでの旧式印刷機を廃して最新式輪転機を導入して技術革新した。千代蔵の弟志賀儀三郎も明治三九年に入社以来、大正八年まで十三年つとめ平支局長に。大正九年に原町支局長・政友会支部幹事長に就任。松本の代理で千代蔵が社長になっていた間、社員が退社した時に一緒に辞職。見込まれて福島新聞に引き抜かれた時には兄から勘当されたが、昭和九年に原町助役に就任。十年には民報に復帰して理事となった。惜しむらくは福島市に転居して間もなく死去。葬儀は故郷の原町で執り行った。
(二上編「福島民報を救った松本孫右衛門」より)

4.24. 原町より
原町製糸場と新繭
相馬製糸場事業開始 相馬郡福浦

明治43年7月11日民報
〇相馬の野馬追 宵乗の前景気
△ 相馬の野馬追
△ 町内の満艦飾 停車場通なる旭町より本町に至る十余町の間を始め町内各戸に競ふて街頭に国旗を掲げ造花を挿し提灯を吊し満艦飾を施して美観を添へ昼夜間断なく数百本の煙火を打揚ぐべしと

43.6.24. 相馬石神蚕種家案内
43.6.25. 石神より
43.7.2. 野馬追宵乗競馬会
43.7.20. 原町の印象 海岸雑記

43.11.28. 小高町の機業 小高町の電話
43.11.13. 〇原町の電話
44.10.10. 第二回電話開通 広告

44年2月、原町町鉄工所創立
44.7.18. 相馬本場・新興の蚕業地

明治44年
電燈の光で満艦飾の野馬追

7.11.〇野馬追の前触
△九百円の祭典費
明治44年7月11日民報
野馬追の前触れ
△新しい電燈 未だ馬鹿にならざる抑の初めての野馬追を見んとした時は街道はアセチレン瓦斯を以て満飾して居ったが、馬鹿になって見れば原の町街道は総て新しき電燈の光にて包まんとする有様にて目下其準備に忙殺されつつある倫敦ならイングランド銀行前とした様な停車場より来る辻に「相馬電燈株式会社」が大意張りして居る様な看板が御座る、更に角是も「いらっしあい々々」の一景気もの。
△電気の着物 原の町に取ては是が一つの新聞の夏衣なり、着られる丈着て外のお客にお愛嬌を振り散かす積りなる可し。先づ停車場稀、夜の森公園にはイルミネーションを点し、田村、山東、円東の各商店其他も競ふて花電燈を以て美々しく飾り、相馬の田舎から来た、野馬追見物のヂヂババ連に杖を腰に当らせ「あら何だべナア」と云はせる算段だ相な。
△団体と煙火 山東及円東とが連合して景品入れの煙火四十発を打揚ぐるは同年のお祭りを飾る景気の一つで「いらっしあい」の種子、福新聞が主催して百五十人の見物人を□して来るのはたしかに一の呼び者で是「いらっしあい」田村呉服店にては野馬追絵入のハンカチーフ及手拭を最も新な意匠で最も安価で売り出す由。□は「銭持っていらっしゃい」其他・・るも皆々大変な景気にて、要するに「いらっしあい々」原の町の方言で「皆んな、おでいあ」
△臨時の列車 海岸タイムス社に寄ったら野馬追号編集で多忙最中「時に臨時列車はあるか」と聞いたら「あるともある、なんぼうでもある。」大変な勢いで野馬の様に其処で時間割を見ると十二日は不通の に是程なんぼてもあり。
△知事もお出 いらっしあいの綱は何処迄も延びる、其綱は福島に届いて知事業夫婦、警務長御夫妻が喰って来る相だ。一昨年師団長の夫人が来て祭典費用が百五六十円増いた相だから此二夫婦で今度は幾何増いるだらう(九日前振記者)

7.13. 〇傘の山人の丘
7.14. 雲雀原の偉観・一千の騎馬武者
7.15. 〇小高の神燈 天に在っては銀漢

明治45年、渋佐機業所が創業

明治45年福島新聞
4.21.相馬で製糸家協議会
4.23. 太田妙見遷宮式 野馬追以上の人出

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