バッカメキの嶮を登る
川崎知事一行と石神村 鉄山ため池工事を見る
半谷生
浜通り初巡視の川崎知事は二十四日午前十一時双葉郡民と別れを告げてその青年時代地方行政の第一歩を印した相馬に入った。何せ相馬人は「我らの知事」とばかり有頂天の歓迎振りである「相馬は彼氏を知事に養成したのだ」「社交の学問を教へたのは我々だ」などと功名ぶる剛剛しい町村長の古手もゐるから笑はせる。その昔川崎郡長の下に主席郡書記を勤めた名吏猪狩雄祐氏は昔と変らぬ謹直そのものといった姿で小野県議と共にはるばる中村から郡境まで出迎ひに来られかつては名議長の名を恣にした小高の鎮台鈴木重郎治翁も案内役のナンバーワンを承はって元気振りを見せる。
×
先づ県社小高神社に参拝し鈴木時田両氏の説明で小高川護岸工事の成績を視、中の郷に入りては県社太田神社にぬかづき佐藤神官の祝詞をうけ原町警察署に向ふ、正午駅前花月における官民合同の歓迎午餐会に臨みスピードで蚕業取締支所、土木監督所、農蚕学校、実科女学校、石川組製糸所、無線電信、原町紡織会社等の巡視、視察を終へ、午後三時半、一行二十余名はトロ四台に分乗し玩具然たる汽関車に牽かせて石神村鉄山溜池工事の現場に向ふ。
×
笹部堰の水争ひはあまりに有名である石神村と太田、大甕とが笹部堰を挟んで田植え季節になると農民が唐鍬や棍棒を振翳し血の雨を降らせたものだ。この争議には歴代の郡長ももしあまし調停条件も用水季節になると反古同然となり長く相馬郡の癌といはれ人事を以ては解決は出来ないものと見られてゐた。然るに災は転じて福となり水争議が導火線となって溜池設置にまで漕ぎつけたのだ。事実現状を見ると喧嘩を仲直りさせるには之より外に途はないのだ。
×
ここまでにするには県の達眼と地方有志との奔走とを認めぬ訳にはゆかぬ、とに角予算を見ると総額四十八万円、昭和三年に事業に着手し昭和八年終了予定とある百姓の喧嘩が五十万円の事業と化したわけである何しろ溜池の面積二十町歩、灌漑面積六百町歩といふのだから一寸きいた丈でも地方にはデカイ工事だ。ガタガタごとごと玩具の汽関車はガソリンを吹き走る。密林又密林、見上ぐる青葉の山、ここへ来て内地にある思ひはしない、相馬にもかうした別天地があるかと思はれる。トロ道の下は千尋の谷だ鬱蒼たる岸壁の繁みの間から奇岩を流れる川の趣きは南画にも見るやうな景だ、「古戦場へ来た」と大和田石神村長は教へてくれた、何の古戦場かと聞くと「水合戦」のだといふ、今野大甕村長、岡田太田村長も傍らで深夜あの山を越えて我々の村から大挙して来たのだといつて笑ふ呉越同舟といふところだが今となっては講和談判後の両将軍会見といった形だ。笹部堰――見れば至って小さい堰だが六百町歩の灌漑とあっては喧嘩にもなるわけだと思った。
民謡流れ山で有名な烏帽子岩が向ふ側に高く突っ立って見える
花を見たくば横川いりに
猿が烏帽子の岩つつぢ
つつぢの頃はまだなくてよい景色だといふ、出発から約一時間でバッカメキの終点に着く、バッカメキ々々と車掌が呼びさうな停車場だ「どうです人家稠密でせう」と石神村長は笑ふ、なるほど官行事業の人夫の小屋が谷に面して沢山建てられてある。
一行は今更の如く工事の規模の大たるに驚きつつ説明者について目下第三期工事に入れる現場を視た堰高二五、四五メートル、築堤高一九六、〇九メートル、中心鋼土築土築堤量土幅二、七三メートル、土幅四、五五メートルの設計なさうだ兎に角これが完成の暁は大したものだらう。一行は県出張事務所で記念撮影をなし再びトロに分乗し原町さしてひた下った時に午後六時。
昭和6年6月28日民友新聞

半谷生とある筆者の記者半谷菊衛は、小高生まれで小高在住の文筆家。少年時代から弁論大会で活躍し、長じて教員などを経て憲政党の政治運動を支持。同党の政治機関紙だった福島民友新聞は分裂し、主力が脱退して新たに福島毎日新聞の創刊で大正14年から昭和6年までの全期間を小高支局長となり相馬地方の政治文化風俗など報道に健筆をふるった。小高駅前で書店を経営した。健康に恵まれず、昭和6年に若くして没した。分裂を回避して再び民友と福島毎日は合流し「民友」に統一されたので、半谷も民友小高支局の記者に。この年、短い民友籍になっている。

半谷菊衛半谷菊衛

Total Page Visits: 1146 - Today Page Visits: 1