野馬掛祭
△火の祭、二日の夜小高町に於て行はれたるがそは明治二十九年凱旋祝の際執行する事となりたるなり恰も祭典の夜各戸軒提灯を灯すと同様に小高町及び其附近の部落にてカンテラに石油を入れて燈すものなるが本年は特に区域を拡張し西は金房村より東は福浦村村上浜南は天王山一体の山脈に至る間すなわち小高野と称する所に二万余の燈火を灯したり
今回の祭事に尽力したる人々は、小高町にては半谷清寿、鈴木良雄、松本忠七、阿部鶴五郎、太田藤八郎、大曲竹八、岡田喜八、高野忠蔵、大浦省三、草野定衛、佐藤清次郎、原田忠助、田村定治、二本松金十郎、二本松庄左衛門、島田右馬之助、紺野助八、鈴木弥兵衛の諸氏なりき
明治35年7月6日福島民友新聞
明治35年の野馬追を取材したジャーナリストには、福島民報の久保和三郎を筆頭に、民友新聞の井上国太郎、福島通信の武田市治、雑誌太陽の坪谷水哉、万朝報の松山伝十郎、大洋の江見水陰、読売の石橋思案、東京朝日の黒田撫泉、毎日の石川安次郎、都新聞の麗水、報知新聞の福良竹亭、時事新報の筒井年峯、中央新聞の田村三治、華北新報の渡辺柳、新小説の前田曙山などの諸氏。
半谷清寿じしんが民友の記者に野馬掛祭礼を説明し、みずからが提唱して創始した火の祭り起源を語っている。この記録により、創始が明治29年のことだったことが判明する。
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