東北研究の各論
高橋富雄氏の校訂本は、仙台のアイエ書店から出版されているが、これに収載されている「将来の東北」の目次を俯瞰してみると、第一章総論では、東北と明治維新、国家、東京、横浜、北海道、満韓、北米との関係を論じ、概括的に東北像がとらえられる。
第二章「現在の東北」では、明治三十年代における東北のマイナス要因について、縷々に列挙して、人間性、文化にわたって細かく批判を加えているが、八十年後の今日に至っても、進歩したと思える点は全くないのが驚くばかりである。
第三章では「東北はその特性を発揮せざるべからず」に始まり、五十一項目にわたってこの提言がなされる。
第四章は、十四項目にわたる。三章の続編である。
これらはすべて八十年前の人物の提言である。
一つ一つを詳しく紹介する紙数がないので割愛するが、いかにこの八十年が東北開発にとって空白であったか、清寿の論文は今日に通用するのである。
清寿の先見性に驚くのではなく、かえって無策のまま一世紀捨て置かれた東北のありようが浮かび上がって唖然たる思いがする。
東北開発の各論は、たとえば現実には新全総のような国家的プロジェクトの一環となっている。
しかし、内燃する東北みずからの自己救済への運動というのは、清寿が失望した時代と本質的には何も変わっていない。
清寿の後半生は、昭和七年の死去までに、まるで後世への予言と託宣のごとく、著述活動に専念する。
しかも現実の実業と政治への関与もなかった訳でなく、ますます成熟の時期を迎え、明治三十年に小高実業会を組織し、青年たちを集め、鉄道開通によって中央の軽佻浮薄な文化の流入に対して抵抗を呼びかける檄なども飛ばしている。
明治三十一年、小高銀行設立。相馬茣蓙織物業計画と伝習に尽力。
明治三十四年、新天地夜ノ森地区開拓に着手。
明治三十九年、代表的著作「将来の東北」刊行。
明治四十五年「磐城水力発電株式会社創立。また衆議院議員となり三時九年間をつとめる。
大正二年、小高銀砂工場創立。
昭和四年「農日本の研究」発表。
以後、「職業宗」の完成に没頭。これは死後発表される。
追補 現今の赤坂憲雄福島県博物館長の抜擢も、高橋富雄氏を招請して県博物館長にした故事の成功体験にならったものだろう。311以後の赤坂氏のマスコミでの活躍は、県首脳の文化行政の采配というよりも、目立つ人事的成功といえるかもしれない。
高橋富雄氏が半谷清寿の発見と発掘に功績あったとするなら、赤坂氏の提言で、震災記念の自然史災害記念博物館の建設あたりになるのかも。
いわきの明星大学には、テレビ・エジプト学で有名な教授を学長に引っ張ってきたことか。中身はともあれ、対外的な知名度は格段に高まった。