忘れられた伝記
昭和十九年に、主婦之友社から「東北の人」と題する半谷清寿を扱った一冊の伝記が出版されている。
この書は昭和十九年三月一日発行。著者の伊与田圓止は、昭和十二年日本大学専門部経済科卒。主婦之友編集局員を経て、大日本青少年団本部教養部員。著作に「日本農の建設」(日本農学者評伝)などがある。
戦時中の出版という事情もあるので使用されている紙質は、まったくおそまつきわまりない。
今日手にすることの出来る同書は完全な状態でも、およそ変色してボロボロで、ページをめくるとバラバラと崩れそうなほどだ。
この本の内容は、わかりやすい読み物ふうの記述で、半谷清寿の人となりを紹介する所としては最も詳しい。というか唯一の書だ。
この本の筋を追って、半谷清寿の足取りをたどってみよう。
さて、清寿が小高へ戻って最初に手掛けたのは酒造業である。これは彼自身の演壇もからんでのことなのだが、清寿にとっては、嫁の実家の稼業の酒造業はビジネスの実験場として大きな魅力であった。
時あたかも明治十四年の政変で、松方正義が大蔵卿となり、世を挙げてデフレ政策がとられる。機を見て敏な清寿は、田舎の商人たちに見えぬ先から時代の変化を読み、着実に増やし続けてきた酒造の石数を減らし、金を回収する。回収した金で、地価の下落した土地を買収して、次の段階に備えるといった対応をした。この準備期に己の実業感覚の成功を実証した清寿は、ようやく地域の指導者として実力を示してゆく。
明治十四年「農談会」というグループを起こし、乾田普及につとめる。
明治十七年「蚕談会」を起こし、養蚕研究室を設ける。
明治十九年相馬織物会社を設立。
矢継ぎ早に行動する清寿の心中には幼い日に抱いた救国の悲願があったに違いない。
だが、旧弊な農村でしかなかった小高では、彼の性急な行動力に対する反発もあり、事業自体も基盤の弱い土地柄では飛躍するにも限界があった。
実業家として行動するかたわら、著述家として天来の才能を発揮するようになるのはこれからのことで、明治二十一年には「養蚕原論」を発表する。
二十二年には「養蚕術」と、行動から紡ぎ出された理論を、次々に積み重ねてゆく。
明治十七年、相馬に養蚕業を興すことによって純農主義からの脱却が必要と決意した彼は、上京して養蚕業の理論と技術を学ぶが、この機会にかつて心酔した松方正義の戸を叩く。
幸運にも松方の知遇を得て、急速に清寿は政治の力に救国のわざを見出すようになる。
経済だけでなく、政治というテーマも清寿の人間をおおきく育てた。・
明治十九年の相馬織物会社の創立は松方大蔵卿からの六万円にのぼる特別有志によって実現した。

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伝記「東北の人」表紙

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