「ほのかに承るところによれば、常磐線富岡、大野間に信号所の設置を要するやに候 果たして事実に候はば、一歩進めて停車場設置のことに御取運び相願い度く、元来当地は常磐線敷設のとき停車場の必要を認め、駅名を公示せるところなるも切取難工事の故を以て設置もれと相成り候へどもその後の発展往年の比にあらず。
何卒地方事情、御調査相仰ぎ停車場設置の御配慮相承り度、関係地主に於ては停車場に要する要地は全部、並に人夫一、〇〇〇人寄付いたすべく候。
何卒至急御許可相成度関係者連署の上請願に及び候。
こうして大正七年十月、夜の森停車場建設は許可された。
請願書に名を連ねたのは次の各氏であった。
但野芳蔵、遠藤岩松、遠藤藤三郎、堀本方松、水谷タケ、吉原久一、林政光、宮本磯エ門、佐藤徳之助、西尾主蔵、
他三名
大正十年三月十五日、落成開通式、但野氏のよろこびは想像するにあまりある。
大正十三年、但野貯水池完成、農民に大きな恩恵を与えた。
常磐線敷設の際、敷設請負人が土捨て場に買ったもの三、〇〇〇坪五〇〇円で買い入れる(半谷氏と共有)
のち売らんとしたので但野氏が引受けて寄付をした。
現在の上田屋、仲屋氏、停車場、線路の中心までである。
但野芳蔵翁は昭和二十五年十二月十四日、八十三才で没した。

私財を投じて郷里の発展に尽くす、という「郷土」の一典型がここにもあった。
彼等のごとき人物のタイプは、現代ではすでに遠い。上から下までワイロでまかりとおる日本に、かつてこのような人物がゴロゴロいて、地域社会を建設した。
時の流れとは、時代によってはよどみもすれば逆流するということなのであろうか。
相双新報「相双の先行者たち シリーズ第十一回」昭和51年

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