夜の森の礎石 但野芳蔵
夜の森発展のかくれたる功労者として、大きな業績を残した但野芳蔵翁が亡くなられてから今年(昭和50年)十二月で二十二年になろうとしています。
さきに「夜の森開発当時を語る会」が翁の実績の一端を世に問うたところ、夜の森地域開発のため、私財を投じ、一身一家の犠牲をかえりみず、開発の起動力となった夜の森駅誘致と建設、宅戸の溜池造成など水資源開発に先鞭をつけるなど数々の事業の実現は単に夜の森開発だけでなく、小良が浜、深谷、下夜の森等、富岡川以北一帯の農家経営に御お聞く役立つ、偉大な着想であり、翁の見通しの確かさに感嘆せざるをえません。
「地下百尺の心」に徹し、縁の下の力持ちとして脚光を浴びず、戦前何等報いられることなく、この世を去った。
翁の偉業の全容をあやまりなく後世に伝える為、顕彰碑を建設すべきであるという声が有志の間に持ちあがりました。
この声に応えて我等三名協議の結果、旺盛なる開拓者精神の権化である故、翁の命日十二月十四日を期して夜の森の一画(旧但野ケ原)に但野芳蔵翁の顕彰碑を建立することに発意しました。
顕彰碑建設委員会
代表 鈴木佐喜
同 佐伯彦弥
同 池田六郎
こんな趣意書が、いま富岡町の3人の手から配られている。
但野芳蔵は、明治5年2月22日、相馬郡磐城太田矢川原の吉迫家の三男として生まれた。相馬郡真野村大字寺内内権現沢92の但野辰治郎養妹夫分家に入籍。明治40年の春、双葉郡上岡村大字本岡字夜の森10番地に移転。
六男二女をもうける。
地元代表者5人の共有地60町を求めて入植し、鹿島町で肥料販売商を営んで成功したため、肥料販売などもし、塩販売、菓子製造などして満鉄に納品。渡満した。駅前が自分の土地であったため、運送業も経営した。原町の無線塔のコンクリート仕上げ工事の下請けに参加したが、赤字を出し、但野家は苦難のスタートを切った。
但野芳蔵の主力を注いだ事業は夜の森駅新設起工請願であった。
こんにち、日本三大美化環境駅の一つである夜の森駅は、常磐線を通過する旅行客の眼を奪う美しい花に埋められている。そして国鉄の無人化駅にも内定しているというドラマの中の小さな駅は、49年には東電原発用トランス輸送絶対反対の中で突如平和な町に機動隊が出動してくるという事態が起こり、別の意味でマスコミによって報道されもした。
この際にこそ、夜の森駅の開発当時を語ろうと、開発当時を語る会は「但野芳蔵翁伝」というパンフレットを刊行した。
このパンフレットは、但野翁の口伝書から語り始められそれによると、
「日時の記憶は確かでないが多分昭和29年12月初めの日曜日の朝だったと思う。この日は珍しくも淡雪が地面を白くしていた。