半谷清寿翁の日本の新研究
政界の巨星がわざわざ下車して訪問した哲人
小高町
憲政会の総裁だった加藤高明子爵の常磐線を汽車に乗るときは必ず小高に下車して、旧友を尋ねたものが相だ。若槻さんもやっぱり下車するそうだそして仙台から出て大臣の印授を帯びた藤澤さんも帰郷の都度今でも下車する相だ政界の巨星が何れも、その駕をさげて旧交を偲ぶ旧交とは誰あらう、今は小高町に隠居の日を暮す半谷清寿氏其人である
憲政党の代議士として三期の長い多地方から押されて中央政界に活躍した当時の半谷代議士は今七十七才の老齢尚頗る元気で朝から夜まで筆を離さない。著すところ題して日本の「新研究」実に畢生の大事業であるのだといふ

今年の「日本及び日本人」春季増刊に半谷翁に「日本の新研究」の大体論が掲載されたのを記者のうちには知ってゐる人もあらう。内容は
第一、 徹頭徹尾誤まれる従来の古代研究
第二、 日本国家の位置及び性格
第三、 第三建国時代日本人の将来
等十数項百余頁の長論文もその説くところ何れも学界の惰眠を破るに足るものであった
実にその研究は徹頭徹尾実験科学者の態度であり、長年月の研究中に半谷翁は観察家としてはフランスのファーブルの如き思想家となり、自らまた日本的経済学の研究に一大功績を樹立するの思索家となり国家学の研究に一大功績を寄与された不朽の名論である。半谷翁は近代希に見る篤学の士で既に「東北の将来」「官民調和論」「相馬実相論」「機業宗教論」等の著がある。

翁は白面の一書生たる私を前に三時間に亘る大長講をやっつけてケロリとしてゐたが、翁が何のために代議士生活に入ったかを先づ述べて見やう。
半谷代議士の議員生活の九年間は、翁を言を借りて言ふならば「陣笠」に終始してゐなかったと述懐してゐる、ところで翁の漫談だが始めて衆議院議員として帰郷した所の事だ、地方の有志はそれ半谷先生が帰って来たと押しかけて早く議会報告演説をやれとすすめた相だが、翁は報告すべき何物をも持たぬからと断っても、同志はどうしてもやって呉れと勧めて何時かな諾かぬところから、翁も仕方なく何でも好いならやらうと承諾したものだ、数日後半谷代議士が報告演説会は文字通り立錐の余地なしの大盛況を呈した。

ズングリした体躯を、熱狂した聴衆の万歳の声に迎へられて壇上に現はした半谷代議士は
「諸君私は衆議院議員となりまして帝国議会に出席してかへって参りましたが私は実際何一つ諸君のためになにやうな仕事を致して参りませんでした、それで私は諸君の前に報告する何物も持ってゐないのです、しかし中央政界を見聞して私は不思議な感を抱いて来ましたから、それを報告いたします。それは政治村には村長ばうりで村民がゐない事であります、唯一人私が村民でありまして他の一人は見な何れも村長様でした、実際政治村は驚き入った廃村であります
と政界の裏面を落語体に物語って肝腎の政策には一言も言及しなかったなどの茶目っ気の多い人であったが、翁の政界入りは政治家として成功を望んでの結果ではなく翁自身は「政界に入って日本の研究をしたい念願があったからだ」と言ってゐる(続く)
昭和3年8月18日福島毎日新聞 町村行脚 相馬郡より(二四)下河辺記者

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