昭和3年8月17日福島毎日
友人の栄達 よそに見ながら夜の森に遁世して思索に耽る
半谷清寿翁の事実
世の中をシラバクレテ暮らす半谷清寿翁は内に燃ゆる愛国の熱を著述に傾けつくして居るのだ、翁は「夜の森」に二十六年間遁世して研究をつづけた。
翁の言を其のまま書き連ねると「俺の研究は文字の研究ではなく、太陽を相手の研究だった」と我々には解き兼ねることを言ってゐる。どうしても行き詰まってゐる日本を救ひ出さねばならぬといふのが翁の体内を沸いて流れる愛国の志なのである、その志を遂げるために押されて代議士となり政界より見たる日本の姿に驚き、日本の新研究を叫ばねばならぬ事を痛感してゐる先覚者であるのだ。
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翁は言ふのである
一、 我日本をば内外人共に世界の小国と認めてゐるが、私は日本を以て大きな国だといふ感じを持ってゐる。
一、 我日本をば内外人共に文化的に最遅国としてゐるが私はこれに反対して日本は世界一に文化の発展した国と考えていゐる。
と右の三項について先づ日本は地図で見て國が小さいと言ってゐるがこれは大きな間違ひである。現在の国の大小は算定法が根本から違ってゐる。国の大小は面積の大小で決めなければならないものである、また天恵の点に至っては我国程天恵の多いところはない
気候は国土が南は赤道直下から北は千島まで長く延びてゐるために熱帯もあれば、寒帯もありて、部分的の生産が多いことは世界的である。鉄が少ないとか石油、石炭も次第に減ってゆくけれ共、火力電気がこれに代わってゐるから少しも心配はない。今や鉄の時代は去って水力電気の時代となった今日我々の憂ふる点は毫もないのではないか。文化も我々の祖先は文明人であった。世界文明は実に日本がその源をなしてゐるのである。と現代人が此日本を忘れ欧米を模倣する愚を数万言を費やして述べられたが真に慶弔に値するものがある。
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半谷翁の功績を語る時、小高町の姿は其処に現はれてくる。全国に率先して羽二重を小高町に持ち込んだのは翁であった。米質の好いのを近隣に誇り得るのも翁が農事の改良に熱心な賜の外ならない。
何処に行っても不景気の声を聞く今日、余りその影響をうけてゐないのは数十年に亘って、翁が努力苦心の結果地方のため殖産興業を興して置いたがためでなくなんであっらう。相馬の偉人半谷清寿先生の名は私の忘れ得ぬ一人となった。昔同僚の若槻さんは総理大臣となった。半谷翁に師事した安達さんも逓信大臣の椅子についた。斯うした友人の栄達を目の当たり見ながら起きなは更に野心の角を出さず筆に親しむ日夕をつづけてゐるのは何故だろう、それは日本が可愛からなのだ。眞に日本の過去を眺め現在に就き、将来を憂ふる者半谷清寿先生を置いて世に何人があろう。
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親友藤澤幾之輔氏が商工大臣に任ぜられた時、藤沢氏は逸早くこの由を半谷翁に電報し喜んでもらふことを忘れなかった。通知の電報を手にして親友の出世を我事のやうに喜んだ翁は直に祝電を発したことは勿論だが
トウゼンノコトデハアルガ ナイテヨロコンダ
の電文であった。翁の友人に対する友情の厚いのをうかがひ知るとともに一通の電文にも独創味のある点、翁の面目躍如たるものがあるではないか(小高町の三)
第一特派員乙班 下河辺記者
町村行脚 相馬郡より(二四)