半谷清寿(はんがい・せいじゅ)が生まれ育ち、人生の大半を過ごした相馬地方は、旧中村藩の藩政建て直しが二宮尊徳の農村復興プロジェクトによって行われ、神とも仰ぐ土地柄である。
実際には、二宮は一度も相馬の地に一歩も足を踏み入れたことがなかったが、中村藩士富田高慶という人物が、二宮の指導によって相馬復興事業を手掛けた。今日でも相馬地方には、二宮を農聖と呼び神聖視する風が遺っている。
だが、半谷清寿は、二宮仕法という純農主義への批判を、幼少時代から身に着けて育った人物なのである。
半谷清寿は一八五八(安政五年)十一月二十七日、相馬中村藩小高郷(現在の南相馬市小高区)の大井地区に生まれた。父は半谷常清という郷士。長男である。
清寿は幼いながらも廃藩置県(一八七一年)で富田高慶の指揮のもとに帰農させられた藩士たちの、没落のありさまを目のあたりにし、果たして相馬中村藩の解体後の民衆を救うのは、農業なのだろうかと疑問を持つ。
清寿はむしろ、立派な商人になることを志した。一方で、父常清が尊敬していた一人の人物のエピソードに、ひそかに心をうごかされてもいた。池田胤直という、相馬中村藩の名家老である。池田は藩復興のために二宮仕法を発業した人物だが、この池田の手元から有為の人材が次々に二宮尊徳のもとへ派遣されている。
池田胤直は、百三十俵の禄高だけを自分に許し、全身全霊を尽くして藩再興に取り組んだ。
父常清はいつも炉辺で繰り返し清寿に語って聞かせた。
清寿は幼心にも、早く百三十俵の身分の実業家にならなければ、と決心する。農業では、とうていその百三十俵を達成できないと考えた末に、商人の道こそ自分を活かし、やがては郷土を救うことができると考えたのである。
清寿の志は徹底していた。
一兵士として徴兵されて国家のために働くよりも、より大きく国家に尽くすために、兵役を免れて実業の世界で成功する方が、よほど理にかなっていると。
こう考えた清寿は、敢えて教員になる道を選び、師範学校に進む。教員には兵役が免除されていたからである。
当世風に言うならビジネス報国とでも表現すべきところだろう。
小高の北隣の原町の商家へ、十五歳で丁稚奉公に出た時に、すでに彼は自分の人生の設計図を想い描いていたふしがある。教員への道も、彼の人生の中での大きな戦略のうちの、小さな戦術の一つであったようだ。
最も基本的な商道を、彼は自分から求めて旧弊な丁稚奉公で学ぶ。三年たって、三春師範へ。
師範を卒業すると、一時教職に就くが、義務年限の二年間が過ぎると、さっさと小高へ戻っている。
彼の頭は、どうしたら小高町の遅れを解消し、相馬地方を興隆することができるか、そのことばかりであった。
それは、小さな人生の中でチャレンジできる最大の念願であった。