突然の空襲
昭和20年2月16日には、突如、福島県浜通りの原町陸軍飛行場は米機動部隊の艦載機の空襲を受けた。同日のなまなましい様子を、当時三年生だった神尾(現伏見)千鶴子さんは日記に記録した。
神尾は鹿島町に疎開していたが、隣町原町の飛行場はわずか数キロ先。艦載機グラマン戦闘機は、鹿島町上空から進入するコースで上空から銃爆撃した。
この2月の原町空襲では死者が出た。なおかつ8月にも10人を越える犠牲者が出た。鹿島町でも銃撃が加えられて4人が死亡し、1人が被弾し後遺症でのちに死去。
「遥かなり雲雀ヶ原」p192
6月まで連日のように警戒警報、空襲警報に晒されると、原町国民学校から慌しく疎開学童たちを土湯温泉に再疎開させた。
長崎第四・第五校の再疎開(6月21、22日)
長崎第四校は福島県の小高町・原町から、長崎第五校は中村町・鹿島町から、それぞれ再疎開をしている。五月二〇日付けの都福島出張所の文書と実際が食い違いのあることはすでに述べたが(特に長崎第四校の尾佐卓朗の日記によrば、六月二一日である。全員が同日移動したとは必ずしもいえないが、いずれにしても六月下旬であることは確かであろう。一方、長崎第五校については、六月二二日の出発であることが関係者の書簡や日記によって分かる。
注68。渡辺茂代子手紙)
ここで問題が二つある。実際に原町には空襲があり、地形的に考えて県外再疎開の三県に準ずる危険が考えうる福島県太平洋岸(浜通り地域、同地域の平市の空襲は三月一〇日)からの移動が、長野県などの再疎開よりも後になっていることである。五月末には再疎開が計画されてはいたのであろうが、そうだとしても、やはり、遅い。二上氏の著書によれば、」七月二一日に県から浜通り住民に疎開命令が出され、防空戦に参加できない「老幼婦女子」は八月一五日までに退去することが命じられている。(注69)両校の再疎開はこの一環であった。そして、原町は八月九、一〇日の両日、再度の空襲を受けるのである。
注68 前出「豊島の集団学童疎開資料集(2)」所収の七月四日付け渡辺茂代子発神尾千鶴子あて書簡には、「二十二日汽車の窓からサヨナラ 〱 と手をふるみなさんの…」との鹿島出発の記載がある。なお、渡辺氏は鹿島町疎開学寮・中村屋の家族である。また、中村町に疎開していた村口由起子は母親あての書簡(日時不明、六月まで消印が判明、豊島区立郷土資料館蔵)で、「22日のばん中村をたちました。」としている。長崎第五校の後身である千早小学校の三〇周年記念誌「千早」(一九六八年、千早小学校)にも六月二二日再疎開とある(二八頁)ので、鹿島・中村とも一斉の再疎開であったと見てよいであろう。
注69 二上前掲書四一頁。
鹿島町の疎開児童
原町国民学校日誌
六月十一日 日曜日。曇。六八度。
一、臨時倶楽部会 於裁縫室(長崎第四校送別会)。
六月二十日。水曜日。
一、疎開児童出発。午後七時三十二分。
六月二十四日。日曜日。雨。六九度。
一、疎開児童出発、十六時二三分
● 学童疎開の調査
今年(1996)三月になって、東京の豊島区郷土資料館というところから注文があった。豊島区では、福島県などに多くの学童を疎開させており、これらについての調査を継続して行っている。昨年の八月には特別展示会を行った。しかし、それでも調査は続いており、青木氏と言う学芸員は未調査であった疑問点について電話で問うてきた。
豊島区長崎第四小学校では、昭和十九年に相馬郡原町に学童を疎開させているのだが、昭和二十年六月になって、土湯温泉に再疎開している。
空襲が恒常的になったために危険な東京から地方の福島県に学童を疎開させたのに、なぜ再疎開が行われたのか。その理由を調べたのだが、結局時間切れになって判らなかったという。