秋燕日記
昭和十九年
六月二十九日 原町に沿岸防備隊が来た。一個中隊ばかり来て海岸をずっと防備するそうだ。その事を今日きいて驚いてしまった。そんなに事態が切迫していたのだろうか。敵が上陸する様な気配があるのだろうか。早くても秋までは大丈夫と思っていたったの。最近は時局が切迫して来て私達の考えは事実の出来事に追っかけられている様な始末、驚くことばかり。
七月十三日 サイパン島のわが軍ついに玉砕。かくごはしていたけど、がっかりしてしまう。
八月二十四日 原町に今日学童が疎開して来た。原町は兵隊さんがたくさんいるし、物々しいから疎開はないと言う話だったけどやはり来たのね。皆、可哀そうにヒョロヒョロしている。戦のためとは言いながら可哀そうなものだわ。
この児童達は東京都豊島区長崎小学校の生徒達だったと記憶している。私宅にも千鶴子、田鶴子と言う可愛らしい子が遊びに来た。この子達は中野屋旅館を宿舎にしていた。
鉾田本校から原町分校に移る少年航空兵13期生が偶然この日疎開してくるこの子達と同じ列車に乗り合わせたのが縁で、13期生は疎開児童との交流が主となり、原町の家々に知人の少ないのが、今になって惜しまれる。
二十年になり、原町も空襲が度々あり、この子達は飯坂に再疎開して行った。
この秋、私達国民にも、ひしひしと敗戦の気配が伝わって来て、物資不足も極端となりはじめ、きびしい噂がささやかれていた。
庭にはどの家も防空壕が掘られ、空き地にも航空燃料にするという「ひま」という草が、青い実をつけ始めていた。どこか熱帯植物を思わせるこの草の種子は、隣組を通じて植え付けられられたものだったが、この実の油が役立つ前に、すでに日本の敗退は目前だった。
向日葵と言う明るい一年草の多く植えられたのもこの年だった。種子を炒って食べられるという事だった。
暗い、不安な思いを抱いて、明るい南国的な向日葵とひまを奇妙な思いで眺めた記憶は今もあざやかである。向日葵の下で鳴いていたこおろぎの声がわびしく、今もこの虫の切々と鳴く声をきくと、あの秋の寂寥感が胸によみがえってくる。
昭和二十年
一月十日 加藤隼戦闘隊の映画を見る。他にマライの虎とニュース。ニュース映画は比島戦線だった。陸海軍の特攻隊の出撃前のもようなどあり、陸軍では萬朶隊、靖国隊の二隊。もうエンジンもかけ出発直前の勇士へ整備兵でしょう、翼の上にあがって耳に口をつけてささやいて居る姿、勇士のうなづいている姿、一番印象に残った。
一月二十日
今日、戦闘機が空中接触する。はじめてあった事故。しかも隼には権藤さん、前田さんものるはず。
折角良く開いた落下傘がだんだん海の方に流されてゆく。落下傘で降りてゆく人の影、青い空にはっきち黒く見える。だれだろう。海に入るんじゃないか。あんなにうまく開いたのに。あんなにはっきり目の前に見える人をみすみす見てて死なすなんて体がぐらぐらして見てられない。二度び見上げた空には落下傘も飛行機も見えず、真っ青な空に雲が流れていた。その速度が憎かった。
権藤さん達一日に三時間ものるとの事、地上におりたつと疲れ切ってふらふらすると言ってたっけ。あまりつかれたせいじゃないだろうか。一日そわそわしてる。後できけば事故を起こした人も無事だったとの事、良かった。しかし目の前で死ぬのを見なければならない気持、もう忘れられない。川口さんに落下傘をたたみなおしておく様に言ってやるつもり
二月十六日
今朝九時、突然空襲あり。午後まで約二十機以上、敵機ちらと見たけど友軍と思ってよく見なかったのでどんな形かおぼえていない。爆音はおぼえたつもり。小松先生がやられた。腹部に機銃掃射を受け、もう駄目らしい。第一回空襲で警報も伝わらないで覚悟もしてない時、小松先生やられるなんて・・・・ついこの間も泊まったりした小松先生。中田さんを飛行機で帰る様に引止めないでよかった。今日来たのは愚ラマン戦闘機で艦載機だ。中村さんが「鉾田飛行場なんて落とさない(爆弾)あんな小さい所に」と言ったのはつい昨日なのに、今日は鉾田より小さい原町に空襲してきた。的は事ごとに予想外、予想外とついてくる。本土空襲なんて事も起りかねないかもしれない。
二月十九日 小松先生ついに亡くなる。
二月二十三日
今朝の発表に今度の特攻隊員中、十七才の方が一人あった。私と同年、若桜、若桜、散る桜、落花、十七才、私も十七才、打ちのめされる。

三月十日
昨夜B29の空襲があった。原町に投弾はなかったけど一時間も防空壕の中に入って爆音をきかされた。友軍機そっくりの音、ぜんぜんわからない。南の方が真っ赤になって見えたと思ったら平がずいぶん焼けたとの事だった。
三月十三日
皆、原町の人は荷物の疎開を始めた。母さんもおばあさんと蔵に入ってやっている。来ないと思ってたB29もついに来たものね。前に敵機は来ないだろうと言ってたら突然グラマンが空襲して、B29は来ないだろう、夜は大丈夫と言ってたらこの間の夜は頭上をうろうろされた。あまり予想外に来るので、今度は上陸かなど皆で覚悟してしまった。母は山形に疎開しろと言う。爆撃で死ぬのはこんな困難な時に生れて来たんだもの人並だけど、上陸した敵にとらえられはずかしめを受けると困るからその時は毒薬で死ぬか山形へ行くかする。

四月十二日  五十八期生、今朝皆休暇が出て家に帰る。私も節ちゃん、照ちゃんと駅までお見送りする。川名さんに扇、桜と日の丸のあるのをあげた。発射するとき、その扇をもうひらいてふるんだもの、恥しかった。
桑折町の田中さんは十時の汽車(下り列車)で帰る。寺田さん、小林さんの三人で御飯を食べて行った。何もなく、気の毒、折悪しく警戒警報が出ていたので何も作れなかったの。それだのにお金五十円、「五十八期一同」としておいて行った。
一度解除になったと思ったら、お昼近く又また発令、B29のやつ十機位づつ来たの中村の海上辺りから入って西南の山を通ってゆく。くやしかったけど友軍機よりがっとりした感じで美しかった。
郡山がやられたってうわさ・・・・・
ゆうべおそく、今朝又早く空襲でもうへとへと。防空壕に入ってるのがつらかった事、寒気がする。
ここで私の日記は頁が尽きて終っている。

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