疎開先の空襲
青木哲夫「再疎開を迫ったもの」豊島区立郷土資料館年報(付・紀要)1997年度・第13号より。
「戦争と豊島区」の「戦場の学童疎開」で述べたように、疎開先の多くが空襲にあったり、軍事施設のそばにあったりして。決して安全な場所とはいえなかった。豊島区の例において著重くしとかなければならない二つの空襲がある。それはいずれも東京大空襲(三月九~一〇日)や豊島区をふくむ東京西北部の空襲(四月一三~一四日)に先立つものである。そして、これは再疎開の実態に大きな影を落としている。
(中略・長野県上田市部分)
第二は、福島県原町の空襲である。前出「戦争と豊島区」では準備不足で福島県にはふれられなかったが、長崎第四校の疎開地である原町の最初の空襲は二月一六日であり、早朝から三波にわたる艦載機の銃撃によって、原町紡績工場その他が被災し、勤労動員の学生や引率教員四名が死亡した。原町には陸軍飛行場があったが、そこの戦闘機は温存のため、迎撃出動をしなかったという。のち、同飛行場では特別攻撃隊が組織され沖縄戦などに投入された。
原町の隣町である相馬郡鹿島町に疎開していた長崎第五校三年生の神尾千鶴子は二月一六日の日記に次のように書いた。
二月一六日(金曜)晴
今日は学校へ行ったらすぐくうしうに、なったので、すぐ家へかへりました。それから、すぐひなんしました。てきのひこうきがばくだんを、おとしました。つちがあがりました。
鹿島町が空襲されたとの記録はない。また、鹿島から原町の空襲(機銃掃射)の様子が見えるとは思われないので、後段の記述には疑問が残るが、この避難が訓練ではなく、原町空襲に対応したものであることは確かであろう。しかし、鹿島でも原町でも、疎開児童についての対策を特にたてている跡はない。彼らが再疎開をするのは遅く六月になってからである。
青木氏は注として、次のようにも書いている。
原町空襲については、二上氏の著作を見るまで知らなかった。神尾日記に空襲の記述があることを指摘されたのは一條三子「学童集団疎開、「地方」からの解題」(豊島区立郷土資料館「生活と文化」第九号、一九九五年)(一五頁)。編集していながら気にとめなかったのは何とも迂闊なことであった。訓練と見て軽く考えたものである。
神尾日記は、豊島区立郷土資料館「豊島の集団学童疎開資料集(2)日記・書簡集Ⅱ」(一九九一年)(豊島区教育委員会)一二頁。
突然の空襲
昭和20年2月16日には、突如、福島県浜通りの原町陸軍飛行場は米機動部隊の艦載機の空襲を受けた。同日のなまなましい様子を、当時三年生だった神尾(現伏見)千鶴子さんは日記に記録した。
神尾は鹿島町に疎開していたが、隣町原町の飛行場はわずか数キロ先。艦載機グラマン戦闘機は、鹿島町上空から進入するコースで上空から銃爆撃した。
この2月の原町空襲では死者が出た。なおかつ8月にも10人を越える犠牲者が出た。鹿島町でも銃撃が加えられて4人が死亡し、1人が被弾し後遺症でのちに死去。
「遥かなり雲雀ヶ原」p192
6月まで連日のように警戒警報、空襲警報に晒されると、原町国民学校から慌しく疎開学童たちを土湯温泉に再疎開させた。