集団疎開の壮行式 豊島区1944
七 福島県の対応
七月二五日までに受入割当を決めるとしていた福島県ではどうなったか。今度は少しさかのぼって、検討する。「疎開転入者指導部福島支部」によって二四日、福島警察署で集団疎開についての支部委員会が行われた。この会議での、管内市町村長・関係団体役員に対しての警察署長の説明では、福島県には二万四千人が割り当てられ、会津五郡を下谷区、その他を荒川区に割当てることが決定され、福島地区で飯坂、土湯などの温泉地をあてることになったという(「福島」二六日)。また、「毎日」(福島版)七月二五日によれば「相馬地方でうけ入れる帝都の疎開学童は荒川区の学童だが中村町は三百名、原町は三百名、小高町は二百人、それに鹿島町の百名と合計九百名」とある。予定通り、二五日までには、豊島区が疎開することになる相馬地方もふくめもおよその割当が決まっていたようだ。
ところが、二九日「福島」では、荒川二万四千の他に「他の一区」がどこであるか未定のまま、「七日頃より疎開を開始し二十日までには完了の予定」とし、地区割当は下谷区が会津、荒川区と「他の一区」が中通り、浜通りとしている。原町署管内・中村署管内各七〇〇名となっていて、二六日「毎日」(福島版)より五百名増えている。この計画は、一応、東京都文書126と132の間のものと想定されるが、荒川の減少分が考慮されておらず、問題がボコル。ともかく、この三四日の間に増加の要請が東京都あるいは内務省からあったのである。協議は錯綜したものと思われるが、実施は目前であった。
中野・豊島・目黒の追加三区が紙上で明らかになるのは八月五日「福島」である。同紙は、四日、県に通牒されたとして「最初荒川、下谷両区内学童のみ三万名だったのが、その後変更されて」「両区内学校からは二万名に減ぜられその代わり中野、豊島、目黒の三区から一万名が加わることになり」としている。そして、「懸としては結局総計数は異動ないので当初の計画通り準備を進めつつあり」という。東京都文書でみる経過や中央紙の報道と異なるのみならず、自紙の伝えてきたこととも照応しない内容であるが、ともかく、疎開してくる区だけは確定した(前述のように八月四日の豊島区校長会で福島の割当は明示されている)。市町村の割当も決まったようではあるが、何区がどこに行くかは、未定らしい。相馬郡については合計一一〇〇名、原町(現、南相馬市)、中村町(現、相馬市)が核四〇〇、小高町(現、南相馬市)が二〇〇、鹿島町(現、南相馬市)が一〇〇名となっていて、前の二つの記事の中間の数字である。また、八月六日「毎日」(福島版)では相馬の総数は同じであるが、中村町が三〇〇で、新地村一〇〇が加わっている。記事の正確度の問題よりも、割当自体が流動的なのであろう。
「学童集団疎開 決定から出発まで」青木哲夫 P55~56