青木哲夫氏より、「学童集団疎開(八)再疎開の続行」 2019・3・20
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豊島区長崎第五国民学校(現千早小学校)四年生の神尾千鶴子を福島県相馬郡鹿島町(現南相馬市)に集団疎開させ、新三年生の弟裕を同郡中村町(現相馬市)に新たに集団疎開させた4神尾家では空襲についての手紙は少ない。もっとも、長崎第五国民学校は長崎地区西部にあり・4・13空襲の被災地区からは離れていたことにもよるかもしれない。三月二一日、裕は中村に着いた。しかし、「そのうち千鶴子さんと裕ちゃんは、あへるでせうね」との母の期待にもかかわらず、隣町の姉千鶴子とは会う機会がない。三月三〇日付の裕さて手紙で千鶴子が「裕ちゃんお元気ですか。裕ちゃんからはちっともお手紙もなんにも、こないので心ぱいですから、ときどきお手紙ください」と書いているから、異なる疎開先での姉妹間での手紙のやりとりgあ始まった。
そして、四月二一日付の千鶴子あての手紙で母千代子は「このあいだの夜のくうしゅうで、お父様の中学校はやけてしまひましたが家はみんな丈夫でたすかってゐますから心配しないやうにね、千鶴子も裕もそのときゐなくて、よかったと、お母様はいまつくづく思ってゐますよ」としている。
千鶴子はこれを二六日付裕あてで「お父様の行っていた、川村中学校がやけたそうです。でも家の方は大じゃうぶだとお手紙に書いてありました」と伝えた。
四・一三空襲にふれているのはこれだけだと思われる。父の勤め先である川村中学校は長崎地区にあったが、全焼した。p28
まだ再疎開が始まらない福島県・山形県でも新規疎開が」続いた。福島県鹿島町には、四月二八日「東京でのこってゐた、ざんりう(残留)の人が鹿島町へ来ました。中村屋には男子が五人女が二人来ました」という。
「中村町にも四人行ったそうですね」ともある。p31
豊島区立郷土史料館」研究紀要『生活と文化』第28号 2019年3月
さやうなら帝都、勝つ日まで
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