竹供出で40万円
昭和20年2月16日、福島民報。
相馬郡下から帝都防空用として竹供出を各国民学校に割当てられ去る十七日まで各校とも供出を終ったがその主なるものは石神の五十万本、鹿島の三十二万本、高平十五万本、原町五万本で郡内供出国民学校に支払はられる竹代は四十万円におよびこれはことごとく児童の貯金となる、鹿島校の如きは防空と貯蓄という一石二鳥の計画に大いに奨励した結果二十万本の割当てに対して割増の三十二万本に達する凱歌を奏するに至った
出るぞ防空竹材
二十日相馬郡を振出しに浜三郡の督励を行った…民報2月27日
相馬郡の割当ては〇〇万本だが相馬地方事務所ではこの完遂に協力して管内町村にこれを割当、組合員はこれと一帯とてて完了を急いでゐるが二万五千九百本の割当をうけた石神村は敵艦載機の侵入に憤慨敵撃滅の闘魂を燃やして供出に敢闘した結果僅か二日間にしてその翌日これ又村総出で数千本の割当を一日で完了したのであった、同郡はいま指導団指揮の下に挙げて最後の突撃展開中だが石神村の大戦果には督励隊の一向も業界最初のことと感嘆、横山支部長を通じ厚く村民の労に酬いたのであった
これらの竹供出の記事は、とうじ原町支局長だった渡部毒楼によるものだろう。毒楼こと善助は鹿島生まれ。大正時代に福島民報社の政治部長として活躍した言論人で、初めて野口英世の伝記を発表した人物。東京が焼け野原になることを予想し、戦時中は昭和18年から戦後23年まで疎開し、東京の自宅を売却し郷里に戻った。古巣の民報の支局長の肩書を貰って生計を立てた。ジャーナリスト魂は田舎町の小さな記事であっても、彼の職分として懸命に発信し続け、彼なりのペンで戦っていたのである。
鹿島出身の彼は、地元の小学校の児童にも熱いまなざしを向け、次の記事もまた彼の記事だろう。
闘ふ小戦士 鹿島の卒業児童
相馬郡鹿島国民学校では将来産業戦士として奮闘すべき希望の高等科児童を予め工場の雰囲気に涵らしめ卒業後直に役立つようにと今回の増産期間を機として工場に勤労奉仕することになり目下五人宛輪番で敢闘中である、これら児童は通年動員ではないが敵機の本土来襲を目撃して憤慨し工員や青年学校生徒の勤奉隊に敗せまいと一生懸命