面会訪問をめぐる議論と実際
保護者等による疎開先児童の訪問(面会)について、四四年七月二二日付文部省次官通牒「帝都学童集団実施細目」は「父兄ノ面会ニ付イテハ成ルベク便宜ヲ図ルモ極力自制セシムルコト」と両様でいささか曖昧な方針を示していた。(全国疎開児童連絡協議会編「学童疎開の記録3 資料で語る学童疎開(1)」
一方、内閣情報局「週報」の「学童疎開問答」では、「面会については、親の心持として、たしかにたびたび様子を見たいといふ気持ちは察せられますが、それはできるだけ控へていただくやうにします」と自制の方向を打ち出している。それは油僧侶kのもんだい、家庭による面会の産むが子どもにあたえる悪影響を理由とし、父兄会代表による面会とその報告による周知という方式を推奨していた。もっとも、「もちろん所要の旅行の序に立寄って、生活を見ていただくといふやうなことは差支へありません」ともしている。(「学童疎開問答 下」「週報」四〇七号(一九四四年八月九日)一〇頁)
九月二〇日には、ナガサキ第五国民学校(現千早小学校)五年真板久子の父栄一が久子の疎開先福島県相馬郡中村町(現相馬市)を、訪ねている。(三五・二六頁)。これらは、仕事のついでであったろう。しかし、このように要務のついでであればよいというのでは、それこそ、家庭の状況による不平等が生じてくる。平穏村渋温泉に疎開していた高田第二国民学校(現南池袋小学校)長野県集団疎開学園「昭和十九年八月起 学校日誌」には早くも八月二七日に「一、二ノ面会人ノ為ニ児童ノ気持ノ動揺サレルノオソレ」とある。
(中略)
「福島民報」九月一〇日は、上京していた木ノ戸警防課長が区・学校との打ち合わせの結果として「面会は一泊程度」「買出兼用は絶対不可」を伝えているが、子ども間の問題だけでなく、mん回とともに買い出しをするといった問題もすでに生じていたのであろうか。
(中略)
「だれも行かなくても淋しがってはいけませんよ」との母からの手紙を受取っていた(前掲)福島県相馬郡鹿島町に疎開していた長崎第五国民学校四年生神尾千鶴子のもとへ九月二三日付と思われる母・千代子の手紙で「十月のおはりか十一月のはじめころ、だれかそちらへ行くことにします」と知らされた。(豊島2四四頁)
しかし、一〇月二一日付では「お母さまも行くつもりにしてたのしみにしてゐましたが、庄ちゃんをゆくと、とても、おしめやなにかあってこまります、し」「お父様がいらっしゃることになりました」(同前四九頁)と変更になった。(庄ちゃんは弟)
一一月一三日付の千代子の手紙では「お父様は十五日に汽車にのって、十六日にそちらにつきます。でももしかするともう少しおくれるかもしれませんが」としている。(同前五二頁)
面会に行くのも簡単ではなかった。
日は不明だが、千鶴子の父は間もなく面会に行った。(一一月一九日付母の手紙、同前五三頁)
学童集団疎開 疎開地の生活と改善策をめぐる諸議論 青木哲夫
面会をめぐる方策にも、具体的な歯止めが必要とされ、校長の証明を義務とする方策や、その証明の乱発まで危惧される状況だった。青木氏の論考に、相馬郡の疎開児童の親子間における書簡の交換のようすを抜き出してみた。