マリアナからの来襲者

 集団疎開の問題点、とりわけ冬季対策に種々の議論がなされている頃、アメリカ軍によって占領されたマリアナ諸島(サイパン・グアム・テニアン島)では、日本本土爆撃用の「超空の要塞」B29爆撃機の基地づくりと機体・兵員・資材の集積が着々と進んでいた。しかし、一〇月初旬、来るべきB29に先だって、マリアナ方面から日本本土に来襲したものがあった。台風二〇号である。
一〇月四日、サイパン西方海上で発生したこの台風は最初、北西に進み、五日の昼ごろ北へ向きをかえた。この間しだいに発達して速度を速め、南大東島の北東海上で、中心気圧九三〇ミリバールの大型の強い台風となった。
 さらに北上した台風は鳥羽半島を横切り、伊勢湾を抜け、七日十一時、名古屋付近へ上陸した。(日本気象協会編「一九四〇~一九七〇 台風経路三〇年集」
 一九四一年一二月八日の対米英戦突入以後、天気予報はなくなっていた。気象情報も軍機とされたのである。(「天気予報も秘密だった 「戦中、台風も伝えられず」気象庁OB」「朝日」二〇一三年一二月四日夕刊)

 福島県でも「暴風雨は八日午後まで続き、浜通り地方南部では四〇〇mmを越す豪雨となったため、県下全般にわたって大きな被害が出、特に浜とおり地方の水害がひどかった」(福島気象台「福島県六〇年間の異常気象(一九〇一~一九六〇年)」(「気象庁技術報告」第六五号)九八頁)。
 福島県岩瀬郡須賀川町の新鶴館に集団疎開していた荒川区第五日暮里国民学校六年の根本尚道は従兄にあたる豊島区池袋在住、立教中学三年生伊藤俊太郎あての一〇月九日付手紙で「きのふ川の水がふえて大水になりまいた。橋の上の方まで水がきてしまひました。今朝見るとていぼうはほはれていまいた。きのふまで見えなかった川の中の島は今朝やっと見えました」と伝えている。豪雨は、豊島区の集団疎開先も襲った。福島県中村町と鹿島町で床上浸水した学寮があり、疎開児童が避難したのである。一〇月一〇日付の長崎第五校疎開児童の真板久子あての父栄一の手紙には「昨日学校から中村町に大水が出て疎開児童は避難したと知らせがありました。東京も秋になって、初めての暴風雨となり、千川が道近く迄一パイになって来ました。此の嵐が福島の方へ行ったら、お前達も困るだろうと話をして居たので、随分心配してお母さんは、すぐ見舞に行きたいといわれていた。でも汽車の混雑のことを考へると、敬三を連れては大変だし、困った困ったと云ってました。今日又学校から通知があって、浸水したのはお前の宿ではなかったことが解り、一同安心しました」(真板栄一「疎開の記録」二一頁、敬三は久子の弟)とある。
 天気予報ががないので、東京の豪雨が何によるものか、どこまで及んでいるかなど分からず、心配する以外にはない。同日付の久子から家族一同あての手紙では「四日ぐらいから雨がずっとふりつづきです。きのふ五時間ごろになったころ、すごく風はふいて来たので、早く帰りました。それで夜の八時頃電気が消えてしまひました。十時ごろむかふがわのい方は、荷物がぬれてしまってゐました。三班の人は私たちのふとんの中に入れました。いせ屋は低い所にありますから、水が上がってきさうです。それは田村さんや下の人がいってゐました」(同前二二頁)とある。久子のいる新開楼はかろうじて直接の被害を免れたのであった。

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