学童疎開 さやうなら帝都、勝つまでは

原町駅に到着 写真原ノ町駅に到着した帝都の集団疎開児童の第一陣

村童の記憶
ズーズー弁そろいの小学校に、どこか軽薄に見える東京弁の男の子が入って来た。はじめのうちはお客さんのように扱われていたが、馴れるにつれていじめられることも多かった。
或る日の下校途中、ふざけ合いながら、家路を歩いていると、東京から訪ねて来たその子の姉に出会った。黒っぽいコートを着てその頃の風俗であった防空頭巾の中に、十七、八歳くらいの白い女の顔があった。
弟思いの姉であった。弟が、あるいはいじめられていると思ったのであろう。
「仲良くしてやってね」といわれたのをおぼえている。しかし、その人たちも東京へ戻るとすぐに空襲で焼かれてしまったのであろう。行方不明となったという消息が聞えてきた(「原町空襲の記録」より鈴木孝紀「春耕」引用部分)

加藤美喜子日記(昭和十九年)
八月二十四日 原の町に今日、学ドウが疎開して来た。
近頃原の町には兵隊さんがたくさん居るし、余り物々しいから疎開はないとの事だったけど、やっぱり来たのね。
皆可愛そうにヒョロヒョロとして居る。戦ひのためにとは言いながらかわいそうなものだわよ。(八牧美喜子・白帝社「こころ」より)

この児童達は東京都豊島区長崎小学校の生徒達だったと記憶している。私宅にも千鶴子、田鶴子と言う可愛らしい子が遊びに来た。この子達は中野屋旅館を宿舎にしていた。
鉾田本校から原町分校に移る少年航空兵13期生が偶然この日疎開してくるこの子達と同じ列車に乗り合わせたのが縁で、13期生は疎開児童との交流が主となり、原町の家々に知人の少ないのが、今になって惜しまれる。
二十年になり、原町も空襲が度々あり、この子達は飯坂に再疎開して行った。
(八牧美喜子・秋燕日記)

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