8月9日の原町空襲
きょうは、長崎原爆記念日。世界初のプルトニウム爆弾で、大量殺傷された日。
わが故郷の南相馬では、昭和20年8月9日、弟(わたしの父)の出征記念のささやかな祝いののち、二上家の家長である兄兼次は、朝早く幼い三男の裕嗣を自転車の荷台に乗せて、同僚の高橋直から入手した福島の桃を、出席者の各戸を回って配った。
父は兄に伴われて、出立のため原の町駅まで出向いた。突如出現した米海軍艦載機グラマンの空襲を受けた。いきなりの突風のような機銃掃射で、改札口のそばの跨線橋の上り口に身を伏せたという。頭の上から、すさまじい数の薬莢がばらばらばらっと落ちてきた。
戦場からとおい東北の田舎町が、このとき戦場になった。空襲は数派あった。
様子を見て、下り仙台行きの列車は、米軍機を警戒しながら出発したが、すぐに隣の鹿島駅に到る手前の川子のトンネルで、上空の機影に発見され、トンネル中に避難した。列車は動かない。
途中まで見送ってきた兄(兼次伯父)は「どこまで行っても同じだから。俺は帰るよ。気をつけて行け」それが最後の言葉だった。
父は、岩沼経由で、遠回りで千葉鉄道連隊にたどり着き入営した。
すでに7月中に、福島県浜通りの常磐線の列車は、なんども米軍機の空襲を受けて、同僚の機関士たちが、運転中に被弾して殉職、あるいは重傷を負っていた。8月8日、機関士木幡重義も末続で銃撃され重傷を負った。
この日、8月9日、原町市内で、太田村の主婦、高橋イクさん38が、爆弾の破片を腹に受けて苦悶のうちに死んだ。大甕村の海岸萱浜の木幡貢さん26と、木幡孝夫ちゃん4が、自宅内で銃撃されて死んだ。太田村のいわき太田駅では、職員紺野勤さんが、銃弾を受けて負傷した。無線塔がロケット弾を受けて黒煙を上げたのは、午前中だった。多くの町民が目撃した。二百メートルのコンクリート塔は格好の目標に狙われた。渦を巻いて黒煙がのぼった。
原町を急襲したのは四十機。渋佐上空に10機ずつ待機し、数派ずつ突入してきた、と、防空監視所の林七郎さんは証言する。4~5機のグループで、縦横無尽、無差別に銃爆撃していったが、集中的に狙われたのは、原の町機関区。軍需工場だった原町紡織工場と隣接する原町陸軍飛行場。
原町紡織工場は、いったん発火し、一時鎮火したと思われたが、午後五時にいたり、紅蓮の炎を沖天高くあげて、夏の夜空を赤あかと焦がした。
夜、長崎に特殊爆弾投下と、満州国境を破ってソ連軍の参戦をラジオは報じた。
(「原町空襲ものがたり」8月9日の概要 二上)
謹んで、3人の空襲犠牲者のみたまと、遺族の平安とを、お祈り申し上げます。
Total Page Visits: 1452 - Today Page Visits: 1