高橋直さん

七月十一日、日曜日。朝八時。
福島市仁井田の高橋マサイさん宅を訪問。高橋直さんのことをうかがった。
高橋さん夫妻は、福島機関区を振り出しに仙台機関区に転勤したのち原ノ町機関区へ来た。昭和十五年のことだった。
一家は、駅のそばの鉄道官舎に住んでいた。
「あの五日前ころ、福島の実家から、果物をリュックにいっぱい詰めて帰って来ました。玄関先にそれをどっかりと降ろしましてね、こう言うんです。
「お前たちにはすまないなあ。こんなにもってきても、食べさせてやれない……」
原町には果物がないですから、コメと交換するのです。今にして思えば、あの時の様子は何か違った感じで、わかっていたんでしょうかねえ。自分の運命が」
九日朝、高橋直さんは空襲警報のなる中を出掛けた。
「職場に行かなきゃならない」
口癖のようにこう言っていた。鉄道官舎には夫人と四人の子供が遺された。
女三人男一人の子供達をかかえて、マサイ夫人は防空壕に避難した。
十日の朝も前日と同様、出勤時から空襲警報が鳴り響いていた。
「昨日は、ゲートルが古いんで逃げて走るのにほどけてきて困った」
と言って、直さんは廊下にすわって足をのばし、真新しいゲートルを巻き始めた。
「早く防空壕に入っていたほうがいいぞ」
マサイ夫人は四人の子供を防空壕に入れるために連れて行った。直さんは言った。
「あとで、また来てみるからな」
との言葉が、妻や子供達と高橋直さんとの最後の別れの言葉となった。
十日の空襲は、実に苛烈であった。
駅と機関区構内は、めちゃくちゃになった。官舎には無数の破片が飛んで来た。壁といわず廊下といわず、傷だらけになった。
高橋さんの官舎にもまた爆弾の破片が飛び込んできた。そのうちの一つは壁を貫き、本棚に穴をあけ畳を裂き、そのまま廊下を真っ二つに割って突き刺さった。
昼過ぎ、ざあっと雨が来た。
防空壕の中まで水がどんどん入ってきた。くるぶしあたりまで水がたまってくる。
一家は壕を出て、官舎で雨をしのいだ。
そこで、我が家のありさまを見た。
官舎に住んでいる人たちのあいだに、機関区員に犠牲者が出たらしいという噂が流れた。まさか、自分の夫はそんなことはあるまい、と思っていた。あんなに普段と変わりなく出かけて行ったのだもの。
しかしやがて連絡が来た。防空壕ごと直撃弾でやられた、という。今、掘り出しているところだが、時間がかかりそうだという。
「早く疎開した方がいい」
と、連絡に来た機関区員が言った。
「艦砲射撃が始まるから、どこか親戚の所へ避難しなさい」
だが、実家が福島で原町には親戚とてない高橋さんは、一体どこへ逃げたら良いのか行くあてもない。
「そうか、それでは」
と言って機関区員は、佐藤という女子事務員の家を教えて、そこに行け、と勧めた。
行先は、高平方面であった。
六歳の長女の手を引いて歩かせ三歳の次女を抱き、二歳と一歳の嬰児を両肩に背負って、そちらへ向かった。
道は大八車に家財道具を積んだ人や、荷物を持った人々でごったがえしていた。
新田川の橋(西殿橋・にしどんばし)にさしかかった所で、また敵機が襲来した。人々は桑畑に逃げ込んだ。
リヤカーを引いていた人が、とっさにリヤカーを橋の下へと突き落として自分もすべり降りた。そして大声でマサイさんに叫んだ。
「おい、かくれろ。こっちにかくれろ」
マサイさんは二人を背負い、一人を抱いたまま川面へすべり降りた。
六歳の長女が、この時別な家族にまぎれてはぐれてしまった。
「お母さ~ん、お母さ~ん」
必死にマサイさんを呼んでいた。その長女を連れに戻り、また川へ降りた。
川から上がると、全身びしょ濡れになっていた。
「高橋さん。うちが近くにありますから、うちに避難しなさい」
ちょうど折り良く高橋さんを知っている機関区の技工をしていた人がその場にいた。
その夜はその人の家に泊めさせてもらった。子供たちを寝かしつけてから、マサイさんは夜中官舎へ帰り、とにかく当座の荷物を運ぶことにした。

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