南相馬市原町区の絵本と童話の会会長の菅野清二氏が亡くなられた。82歳。
原町第一小学校の旧教諭で、現評議員。

昭和57年の夏、ご自宅でインタビューしたことがある。

「爆撃をのがれて 8月11日
 長く暑い二日間の猛攻撃だったが、今日再び敵機が来ない保証は何もない。
 菅野清二教諭は、「子供に戦争体験を掘り起こさせるものの心構えとして、まず、自分の体験を」描いた。
 次に掲げるのは、子供たちに読ませるために綴った「戦争があったころのぼく」からの引用である。
 「きのう突然の雷雨に空襲なかばで残念そうに引き返した敵機です。きょうは、きのうの分までもと勢いこんでやって来るのではないかと不安でした。それで僕たちは真っいうちに起き出して、前夜の内に用意しておいた荷物を持って山下へと向かいました。父は自転車の前後に二人の妹を乗せ、入れられるだけ入れたお
 重いリュックサックを背負った兄と僕は母の引くリヤカーの後を押して歩きました。本当に、このときほど夜明けが来ないことを願ったことはありません。
 父は自転車で楽なようですが、これからこの自転車で町まで往復二十四キロの道を配給米やいもを山下まで運ぶのです。つまりこのおんぼろ自転車は僕たち一家の命を支える大事な道具だったのです。

 小池の坂道を上るとき、とうとう夜が明けてきました。ぼくは朱色に染まった東の空をいやらしいものでも見るような気持ちでながめました。
 と、そのときです。ブーンという爆音が聞こえてきたのです。僕たちはすぐ木のかげにかくれて、飛行機の姿をさがしました。空襲しにくる敵機ではないかと必死でした。でも幸い、それは一機の日本軍の飛行機とわかったので、僕たちはほっとして朝ごはんのかわりのおにぎりを食べました。山下に早く着きたい。そして早く安心したい。山下はまだなんだろうか。みんなそう思いました。
 まだ、誰も行ったことのない山下への山下への道は、よけい遠く感じられました。やがて僕たちは、山道に入りました。これでいよいよ山下に近づいたと思うと、はげみが出てきました。山下というからには、きっと山があるだろう。それなら、かくれるところもいっぱいあって、安全だと考えていたのです。ところが道はたいした時間もかからず山をぬけてしまい、広い田んぼの中へつづいていくのです。
 ぼくたちはがっかりしてしまいました。これでは山下はこの部落をすぎてもっと行かなくてはならないだろう。と思ったのです。それでも気をとりなおして、リヤカーを押して歩きました。そしてその部落まで来てから道のそばの家の人に、
「山下っていうのは、どこら辺ですか」と聞きました。と、村の人は、
「あら、ここが山下なんだと。」というのです。
ぼくらはただびっくりすると同時にがっかりしてしまいました。まさかこんな広い田んぼの真ん中の部落が山下だなんて何ということだろう。
これではかくれる場所が何もないではないか。
何のために苦労して来たのか、わからないのではないか。そんなことを思いながら、Kさんの家を教えてもらい重い足取りでやっとKさん家にたどり着きました。
 ぼくはKさんの家につくとすぐ、リュックを肩からおろし、えんがわにドサッと腰をおろしました。
 やっと着いたという安心感で緊張がゆるんだのでしょう。にわかにここ数日の疲れが出て、もう欲も得もなく横になりたい気持ちでした。その時、ぼくの前にぼくぐらいの年の男の子がやってきて、「わあら、なんしゃ来ただ。お前たち何用あってきたのだ」と、いじわるくいうのです。ぼくはこんなひどい思いをして、疲れているのに何を言うんだという思いがこみあげて来て、目の前にいる男の子の顔の真ん中にげんこつを思いきりくらわしました。男の子は突然お見切りなぐられた驚きと痛さで大声をあげて泣きながら家の中にかけこみました。その家の子をなぐって泣かせた失敗など思うゆとりおありませんんでした。mぼくはもうどうしようもなく疲れていたのです。どさっとえんがわにあおむけに倒れました。青い空にかきの葉がゆれていてとてもきれいでおだやかな感じでした。男の子はさかんに泣いていました。その声がいつか聞こえなくなりました。そのままぼくは昼近くまで夢中になってねむり続けていたのです。(後略)

 注。山下というのは、旧鹿島町の北辺に位置する。つまり、原町の中央から北へ24キロ。南相馬市の面積の半径にあたる。

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