前日 八月八日

「空襲で亡くなる前日にね、兼次さんがうちに来てくれた。弟さんの出征祝いで及ばれした日の翌朝でした。昨夕はろくにお礼が言えなかったので、と言って果物を持って来てくれて」と林武雄さん。
原ノ町機関区検査掛の二上兼次は、自転車の後部に二歳の息子裕嗣を乗せて、前夜の客人宅に桃を配ってあるいた。
「明日あたりは、なんて話たんですよ。明日あたりまた(空襲が)あるんじゃないか、なんて。兼次さんは確かあの時は、休みだった、と思いますよ、だから明日は家にいたほうがいい、ゆっくり家で休んでいろ、って言った記憶がある。でも兼次さんは、こういう時勢だからって、結局休みでも職場に出たんだね」
昭和二十年八月八日。二上兼次は同じ機関区につとめる弟が現役召集されたのでその出征を祝して同僚を自宅に招いた。
二上兼次は私の伯父にあたる。お問とというのは私の父のことである。
「二上さんはは何でもよくやる人でした。器用だったし、音楽が好きでしたよ。あの日は、(機関区に)行かなくてよかった筈ですのに、あの頃はみんなそうでした。休みだからって休んでいる状況じゃあまりませんでした。上司の方もそう要求しているような空気でしたね。今の時代と違います」
「うちの主人が四十代で、検査掛の資格を取ったあとに、二上さんも同じ資格を取りに仙台の鉄道学校へ行ってて帰って来たところでした。まだ勤めに出なくてもいい、休みの帰還だったんです。家で休養なんて考えなかったんでしょう。出かけて行って、あれでしたからね。気の毒でした」
二上兼次と同じ機関区の夫を失った志賀ホシノさんは、こう語ってくれた。
七月十日の仙台空襲の時には原町に戻っていて難を逃れた。その後、仙台空襲の惨状を見て、その折のことを家人に語っている。
「防空壕には入らない方がいい」
仙台駅の防空壕が直撃弾でやられて、だいぶ死んだ。機関区という職場は米軍の空襲の重要な攻撃目標で、そこで働く誰もが死と隣りあわせであった。

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