一瞬のうちに二人の生命が

八月九日の空襲で、さかんに無線塔がねらわれた。原ノ町駅および機関区構内、帝国金属株式会社原町工場、陵軍原町飛行場、原町紡織工場など主要施設のほか、町内および周辺村落の学校など、そして夥しい数にのぼる民家までが攻撃された。こんにちの原町市の太平洋岸に位置する旧大みか村地区にも、この日かなりの被害が出ている。金沢、北泉、萱浜、小浜などに爆撃、機銃掃射などの攻撃が加えられ、焼夷弾を落とされた民家は、家屋が炎上し、焼け出されるなどの被害に遭った。ここでは萱浜地区の空襲犠牲者について述べる。
南萱浜字才ノ上の木幡俊雄さんの家は、海鳴りのたえず聞こえる海沿いの、静かな集落の中心にあった。警戒警放はしばしば鳴っていたが、頭上高くゆっくりと飛んでゆくだけのことで、実害はなかった。実害と言えば、作った米を、あらかた供出米と称して、役場の人間が持っていってしまうことと、金属のついた日用品なら何でも、仏具まで持ってゆかれてしまうことであった。
それが国家総動員法をはじめとする諸搬の悪法の具現化であったとは、素朴な村人には考えもつかぬことで、供出米が不足だといって家中を家探しされた人たちは、同じ村役場の小吏の非情をうらむほかなかった。働き手を兵隊にもぎとられて、残った老人や婦人や子供たちに、農村労働は担わされたが、ただひとつ空襲被害がなかったことだけは幸いであった。
その日、異国の黒い飛行機は、金属的な爆音を面かせて海上からやってきた。
真っ青に暗れあがった、ぬけるような蒼天であった。
サイレンが変った。単調な警戒警報が、身をよじるような空襲警報になった。木幡俊雄さんらは家の中にいた。病弱であった二十六才の弟貢さんと、四歳の息子の孝夫さんは、奥の部屋に畳を立ててその中にうずくまっていた。俊雄さんは隣りの部屋にいた。飛行機はいつもの高空でなく、どんどん低空へと降りてくる。集落めがけて、機銃の火花が飛んできた。
バリバリバリバリ
藁揖の屋根といわず、雨戸といわず、破片を吹きとばして、豪雨が走り抜けたかのような銃弾の雨が、家々にふり注いだ。俊雄さんは、奥の納戸で二人が倒れているのを発見した。
「痛いよう、痛いよう」
息子の孝夫さんの、下腹部に銃創があった。
弟の貢さんは、頼から入った銃弾が、首とのどを貰いていた。即死だった。
飛行機は、上空をわんわん飛び交っている。村人は、近くの道の両側に切り山状となっている場所に避難していた。俊雄さん夫妻も、孝夫君を連れて、そこまで行った。
飛行機が、まだ飛び去らないでいた。
見つかれば撃たれる、その思いが、村人たちを釘づけにしていた。病院へ運ぷといっても、町までの遠い路離をどうして運ぼうか。
「水がのみたいよう。水がのみたいよう」
孝夫君は自分の身に何が起こったのか知るよしもない。ただ、わけもわからず激痛と渇きに苦悶するばかりだった。俊雄さんも母親のキミヨさんも、ただおろおろするばかりで手のほどこしようがない。
キミヨさん夫妻には六人の子供があった。三男三女のはずが、長男初雄さんを一才の時に亡くし、三男の貞雄さんを前の年に亡くしている。残った男の子は孝夫君ひとり。四才になった二男の孝夫君だけが、木幡家の後取りとなる筈であった。キミヨさんの腕の中で、孝夫君はやがてぐったりとなった。木幡俊雄さん四十四才。キミヨさん二十七才の時だった。
(なぜ、うちだけが二人も)
キミヨさんの慟哭が、隣組近所の村人の胸を締めつけた。

高橋イクさん

太田村でも犠牲者が出た。原町の南に位置する丘陵のかげに、静かな農村が広がっている。南北に通る旧陸前浜街道沿いに、民家が点在する。そのなかに、昭和二十年当時、小さな店を出していた高橋さんというお宅があった。その家の主婦は、イクさんといって、人柄が良いことで近所の人たちから愛されていた。
家にはタツさんという祖母と、母ハツさん、娘の淑子さん(当時小学二年生)などがいた。世帯主は、喜一さんという人でこの家に養子として入り、大工をしていた。
八月九日、持病の胃病で伏せていた喜一さんを看て、イクさんは家の中にいた。祖母タッさんも、母ハツさんも一緒であった。
娘の淑子さんは隣の中島さんのところに遊びに行っていた。中島さんには、同級生がいたからだ。
空襲が始まってからも、病人を連れて逃げるわけにもゆかず、イクさんは、中島さんが山の方に頑丈な防空壕を作っていたので、そちらへ一緒に避難することを勧められても、家を守って残ることにした。
孫娘の安否を気づかって、祖母タツさんもそばにいた。母ハツさんも、姑を置いてはゆけない。四人のいる家が爆弾の地響きで揺れた。
店のガラスが、びりびりふるえた。
空襲は、熾烈になってきた。
「原紡の工場に爆弾がバラバラ落とされるのが、こっから見えた。上の方の高田彦次さんの家も燃えだした。」
近所の門馬ミサオさんも当時の様子を回顧する。
「私は義父を荷車にのせて、鶴谷まで逃げました。義父を松の木下において、私は萱の中でかくれてました」
イクさんの伯母松本ミノさんは、高橋家からすぐ近所の松本家に嫁いでいた。
「あの時のことは、全部おぼえている。むごい話だった、なんぽう、かわいそうだったか、わがんねえなあ、ハァ」
高橋タツさんは、ミノさんの母であり、ハツさんは姉にあたる。イクさんは、姪なのである。
爆弾の破片が飛びちり、飛行機が機銃掃射しながら上空からなめるように民家に襲いかかる。
「表のガラスが割れたんでは危いから」
というので、寝ている喜一さんを囲むようにイクさんは障子をたてかけ、そのうえに畳をかぶせた。
それから家の裏の土手に祖母タツさんを連れていった。孫が祖母を気づかい、祖母がまた孫を気づかい、この家族は近所の人がうらやむ円満な家庭であった。
家を守り、喜一さんのかたわらにいた母ハツきんが、裏の二人が防空頭布をかぶっていないのに気づいて、布団を持って外に出た。タツさんに布団をかぷせ、娘のイクさんに布団をかぷせたところに、爆弾の破片が飛んできた。
あっと言うなり、かぶった布団の上から、イクさんの右横腹に、弾片が突き刺さった。
一瞬の出来事だった。
だれもが身動きとれない。
飛行機はぶんぷん上空を飛んでいる。
やがて、飛行機の姿が途絶えたのをみはからって、近所の人たちが集まってきた。
『とってくれえ、とってくれえ』と、それは苦しそうにおイクさんは言っていたんだよ。体の中に、破庁が入ったままだからなあ。どうしようもなくてなあ、はあ」と門馬ミサオさん。
「布団も着物も、腰にまいて縛りつけていた通帳だのも、みんな貫いて、手のひらぱどもある破片が刺さったんだ。腸も何も、あったもんでない。
『首ってくれ、首ってくれ]と、イクはオラに言って頼むんだでな。腰のあたりが、三併にもふくれたように腫れてなあ」
松本ミノさんは、その日のことをこう話している。イクさんは、あまりの痛みに耐えきれずに、自分の首をしめて殺して欲しいと訴えたぽどだった。
「三時間半ぐらい、生きていました」と娘の淑子さんは思い出す。
「その夜、墓地に運んで埋めました。もちろん、身うちだけです。それから十五日になって、終戦になったので、掘り起こしてあらためて焼いたんです。ですから、ろくな供養もできなかった。
イクさんの命を奪った爆弾の破片は、しばらく家にあった。
「焼いたあとから、腹の中の破片が出てきてなあ、ネジのついた、手のひらぐらいの鉄だった」と門馬さん。
(七月十二日、ちょうど近所のおばあさんがお茶のみに門馬さんの所へていた。私もお茶とダンゴをふるまわれて、ごちそうになった。近所のおばあさんも、しきりに「んだどなア。んだどなア]と、相槌を打つ。「あんな戦争は、二度とごめんだなあ」しみじみ門馬ミサオさんは言う。)

油屋の屋上で

「八月の空襲の時には、四〇機近くの艦載機がきた。いっぺんに、ではなく、十機ぐらいの編隊で分かれてやってくる。これは、やられる、と思いました。小名浜方面から敵機侵入の連絡が米て、浪江上空あたりから機影が見えます。私と岡田さんという監視員の二人だけ残って、あとは下へ降ろしました」
防空監視哨長林七郎さんは、当時のことをありありと語ってくれた。
「ところが、上に残されたまま私たち二人だけ降りられなくなってしまった。頭の上をブンブン敵機が飛んでますから、動いたら見つかって撃たれる。屋上ですから、上からは丸見えです。コンクリートの陰にへばりついて隠れてました。そのコンクリートも、機関砲弾で粉砕された。油屋さんの建物にも、機銃弾がずいぶん当りましたよ、シャッターに穴があいた。
攻撃は、工場とか飛行場なんかがまずやられて、爆弾を落とされた。ですが、全部いっぺんに攻撃するんではなくて、五機か六機ぐらいでやります。残りの十機ぐらいは、渋佐の上空で待っているんです。四〇〇〇メートルぐらいの高度で、迎撃を警報しているように見えます。
民家が相当やられたのは、あれは遊びみたいなもんなんですね。日本の戦闘機の反撃が全然ないのが分かりますと、主要な目標をやってしまったあとで、ついでに遊び半分でやるわけです。無線塔なんかも、ゲームでもやってるような具合に狙う。それに、民家の白い壁っていうのは、八○○メートル上空あたりからだと、とてもよく目立つ。それでやられたんではないか」

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