代用教員
相馬商業(昭和一九年から工業)学校の繰り上げ四年卒業生たちは、二クラスあった。一組は原町紡織工場に動員され、も一組は帝国金属横浜工場へ動員されていた。
「ほら、あの、斉藤京市君らは横浜工場で卒業した組だよ。私が横浜まで行きましてね、そこで卒業式をやった」
当時の校長であった鈴木勝利氏は、なつかしそうに語った。
学徒たちは、勤労動員されたまま、横浜の工場で卒業証書を手にした。「母校」は、鈴木校長ひとりが背負ってきたようなものであった。
卒業とはいえ、四年で繰り上げのうえ、研究科生として残って工場で働くことが、暗に期待されていた。
いろいろと事情はあった。東京の大学も合格していた。しかし、過酷な東京大空襲をまじかに体験し、ひとまず原町に戻ることにした。
十七歳だった。
中学校を卒業したばかりだった。
斉藤さんは郷里の母校原町国民学校の代用教員になった。
昭和二十年四月十九日(木)の学校日誌の記事に「新任職員披露」とあり、その中に「斉藤」助教諭の名も見える。
真剣だった。だが、毎日が勤労奉仕や防火訓練に明け暮れていた。
高等科の生徒は十三歳。兄弟のような助教諭であったろう。
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