おわりに

七月十七日。夕五時。伯母から、あらたまって伯父の最後の様子を聞いた。自分の肉親の、死の状況をきくのは苦しい。だが、だからこそ精確に詳細を知りたいと思う。
断片的には漏れ聞いたことはあった。だが、それらは昔語りとしての域を出ないものだ。筆者は先に、空襲を記録するのは昔語りの炉辺を取り戻すことだ、と書いた。しかしあえて言えば私の炉辺とは、単なる“昔語り”の場でなく、世代が次の世代にメッセージを伝える場であると言おう。
私の聞き書きのメモワールであるこの稿がどこまで地域史を埋めるかは知らぬ。
けれどもこの一ト月のあいだに聞きつくしたような感慨が今の私にある。
誰も語り聞かせてくれなかった。だから私の方から聞きに出かけていった。
出かけてゆけば、みな歴史の傷口からほとばしる鮮血のどとき思い出を語り出してくれた。
戦争が昔あった、のではない。今なお戦争は生きて肉体のなかにある。
その声を聴いていなかっただけのことだ。
戦争は終わったのではない。
昭和二十年八月十五日。あの日は一つの大戦の終わりではなく、冷酷な国際政治による新たな抗争の始まりにすぎなかった。
それにしても、どうしてこんなに痛々しい話ばかりを私は追いかけてきたのだろう。
十に人までの空襲犠牲者のご遺族をたずねて、その最後の様子や、肉親としての思いをすべてつまびらかに聞いた。だが最後までどうしても聞くととが躊躇されて最後まで残ってしまった酒本幸蔵さんである。
伯母から話を聞いた同じ晩、心をふるいたたせて電話をかけた。酒本さんのご遺族は水戸市に住んでおられた。
事情を説明すると。ご長男の邦夫氏が答えた。
「母はそのことについては触れたくないようですので、私たちも話題にしないのです。」
嗚呼、やはりそうか。そうだろうな、と思った。
「母はもうじき八十になりますが、話していてその時の空気でわかるのでのです。」
長男としての気持ちはどうか、とたずねると、
「子供に話してやってもいいような気もしますが」
弟は、物心つかぬうちに父親が死んだので、あまりよく顔もおぼえていない、という。
私にしても、私の生まれる前にこの世を去った伯父の顔を、今まで知らずにいた。
伯父の顔は、一族の者の特徴を一身にそなえていた。ことに従兄たちの面影に、在りし日の伯父の風貌はほうふつとさせて、伯父が亡き人ではあっても、取材中たえず身近にその存在を感じることが出来た。
親しく語りかけてみたい気持ちを抑えながら、私はこの稿を書いている。
酒本幸蔵さんのことは、だから半ば気おくれしながら後まわしになったのだが、邦夫氏の話を聞くことで諒解が出来た。
私もまた聞き出すことがつらく、御母堂のお気持ちを考えれば、かえって子問わttいただいた方が不思議に気が楽であった。
電話機をおいてから、私はこみあげてくる涙をどうしようもなかった。
空襲犠牲者の死亡状況を聴きながら、何度涙ぐんでしまったことだろう。
聞いては泣き、書いては泣き、しかし出来上がった文章は、当時の状況や語り手の思いを再現することにおいて拙く、もどかしいかぎりなのだが、短時間でまとめられたこの稿は、本来「空襲を記録する」運動の一つの布石のつもりなので、生活記録文の集成という形で、このまま印刷することにした。
私の取材は、もとより私的な活動の域を一歩も出ないし、聞き書きできたのも、空襲犠牲者の遺族が中心だったので、他の多くの負傷や物損被害については、後日公的組織的な調査があるものと内心期待している。従って、全文をつなぐ意味において引用を多とした。先人の記録を貴重な証言として引用させて頂いた。あらためて感謝申し上げたい。

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