六月二十一日、梅雨空から雨粒が落ちて来そうな夕刻であった。高平の鈴木梅香さんのお宅を訪ねると、初対面にもかかわらず歓待してくださった。その時に梅香さんから、小松先生の殉職の様子を伺った。
 詳細な記憶に敬服した。妹小松さんの思い出が漂うような庭先に、花々が乱れ咲いている。
 小松さんの殉職の様子を聞いたあとで、梅香さんが言った。
「つい最近、東白川郡の人からハガキが来ましてね。弟が近衛連隊の時の戦友という人でした。自分は悠々自適の老後を送れるようになったが、そちらはどうか、というような文面でした。弟はね、二度目の応召で会津若松の連隊へ入り、最期は沖縄で戦死したのですが、それを知らずに生きているとばかり思っていたらしいんですね。ですから私、詳しく、そのことを書きました。返事を出したんですよ。そしたら、そうですか、それは知らなかった。そのうち是非線香をあげたいから、そちらへ行った折には必ず寄ります、と言うハガキが、来たばかりなんです」
 戦争が引き摺る長い影は、その時代を生きた人の人生を大きく横切り、忘れることのできない背景をたえず思い起こさせる。
 新たな戦争を望む者は、こうした記憶を封じ込め、風化させたいのだろう。しかし、戦争を知らぬ世代にとっては、同じ体験を戦場で味わうより、記録を読んで追体験した方がよほどましではないか。
 それに私自身の感想で恐縮だが、老人から昔話を聞く炉辺を失ってしまった現代において、戦争体験を記録するという行為は、それを語る人も聞く人も、あの炉辺をみずから取り戻していることに外ならぬのではないか。すくなくとも私自身をふりかえってみて、原町無線塔や関東大震災の歴史をたずねて歩いた時の感慨は、まさにあの炉辺に対する郷愁と渇望であったと言える。
 折も折、1982年6月は、第二回国連軍縮総会が行われ、世界各地の反核運動家や市民が大挙して駆けつけた。記念すべき運動の高まりを示した月であった、
 三月二十一日に、浪江町で「臨界幻想」が上演され、五月十五、六日には原町市で原爆資料展と上映社会が行われるなど、草の根の運動が地域内でもみられた。
 梅雨空の下で、私は思う。日本の四十年前の戦争は、大きな傷を今日に残すとしても、より重要なのは日々自分たちの生命を守るべき戦いが、今行われつつあるということである。

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