20 まためぐる夏

 七月七日。終日雨。相馬農業高校同窓会館で、相農史編纂のための基礎思料を調べる。梅雨独特の、うっとうしい雨のしずくが窓をつたっては落ち、私のいる三階の資料室へは、隣接する厩舎の、まぐさのにおいが這いのぼってくる。
 セピア色の過去への旅は、あくせくした毎日の日常から、はるか遠くの地点まで私をみちびく。
 昭和史の最初の二十年は、私たちの住んでいる現代と何と多くの点で異なっていることだろう。しかしながら、皮相なる現象面だけが異なるだけで、日本的底流は何ら変わっていないことが、このごろうすうす感じとられるのだ。
 昭和十二年のこの日、日中戦争始まる。
 この日は原町共生授産園で、西野宮環氏や、森鎮雄氏と、話が戦中戦後のことに及んだ。
 七月八日。大原ヨシ子さんの最後の様子を妹ヤス子さんから聞いた。
 原紡空襲における被害について、少しずつ全体像がつながりだしてきた。犠牲者ヨシ子さんの写真を拝見した。現在の女生徒たちとどこも変わらぬ、清楚な少女だった。
 七月九日。朝がた、出勤前にNHK話題の広場で「仙台大空襲を語る」という番組が流れはじまった。いつものあわただしい朝の支度をしながら、意識の片隅で聞いていた。
 ブラウン管では、夫と子供を失った女教師が、その夜宿直で家をあかして帰宅して自宅の防空壕から二人の遺体を掘りだした体験談を熱を帯びて語っている。昭和二十年のこの日の夜から仙台は未曽有の空襲被害を出した。
 悲惨さに目がしらが熱くなってくるのだが、心を励ましながら立ちあがり、子供たちを車に載せて出かけた。
 この頃、連日のように空襲の体験壇を取材してまわっているので、私の意識の半分は、過去の側に置かれたままだ。
 この日は期末テストの終了日で、午後から星スズイさんのご両親と、萱浜の二人の犠牲者を出したお宅へ話を聞きに行った。
 七月十日。土曜日。午後から福島市の県立図書館へ行き、昭和二十年当時の地元紙を調べた。福島市の仁井田には、原町空襲の犠牲者高橋直市の未亡人マサイさんが住んでおられう。電話してみると、受話器の猛攻側で明るい声がした。明日伺うことにする。
 七月十一日。日曜日。福島は猛暑。朝方から取材。機関区員の家族というだけで、しかも同じ運命をたどった者を肉親に持つ者として、親しく歓迎してくださった。私の質問の一つ一つを真剣に受け止めて、詳しく当時の状況を語ってくださる。
 七月十二日。月曜。高橋イクさんの、叔母にあたる松本ミノさん、近所の門馬ミサオさん、娘の淑子さんに会い、前後の事情や亡くなられた時の様子を知る。
 それから新妻嘉博さんのご母堂を訪ね聞き書きする。あまり聞くことばかり先行すると、ごっちゃになったり、忘れたりすることをおそれ、次に取材すべき行き先に行きたいはやる気持ちをおさえて、今日聞いた分を書き留めておく。
 七月十三日。火曜日。双葉町の斉藤和夫さんの姉さんと、相馬商業時代の牛渡先生(浪江町請戸)の話を電話で聞く。
 七月十五日。木曜日。原紡空襲で亡くなった斎藤和夫さんについて、かなり食い違った証言のために、かえって事実を確定できず困って、当時の克明な日記を書き留めておいた伊賀慶一郎さんに会い、確認する。また、女子学徒として働いて居た高橋ヨシ子さんより、当時の少女たちの心情を伺った。
 さあ、これで私の取材は終わったようだ。
 空襲を記録する会に顔を出してからちょうど一か月。
 そしてあと一か月で、三十七年目の終戦記念日を迎える。
 夏はじりじりと、そこまで迫り、大粒の汗がふきだしていた。

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