相馬商業学校誕生す  昭和14年

昭和十四年、原町に相馬商業学校が誕生した。中村に相馬中学があり、原町に相馬農業校がある。行政の中心地は中村町であって、原町は新興の集落にすぎない。
相馬という名称はほかの地方まで通用する響きがあったが、原町というのは1ランク下のいかにも安っぽく軽く聞こえた。
歴史のない町の、新設の学校。もとより宿場町であった原町には半農半商の後継者養成学校が求められた。だがいやおうもなく日本全国が戦争遂行というう大目標に向かっている季節に、軍国教育はここにも及んでいた。
童顔の新入生はみな予科練を憧れていた。「ヒトラーユーゲントに就て」などという現代から見れば好戦的で物騒な講演会の写真が誇らしく当時のアルバムに残っている。
昭和14年夏 原町駅前
当時ナチスドイツは先進ヨーロッパの模範国家で、ナチスをまねた大政翼賛会という自主的軍国主義団体がハバをきかせていた。
旧制中学は現在の中学三年に高校二年を上乗せした五年制で、最初の卒業は五年制だが、戦況悪化を理由に途中から四年繰り上げ卒業という制度まで出来て総動員体制に拍車がかかった。
連日、飛行場の軍用機運搬の労力に借出され、あるいは昭和十九年には相馬工業学校と名を変えて軍需工場へ勤労学徒として動員された。
未婚女性は女子挺身隊。既婚女性は上流なら愛国婦人会。庶民クラスでは国防婦人会としてファッショ協力へ競争させられた。はては産めよ殖やせよと性生活まで指導するという配慮の細かさ。
翌年門馬猪助さん一家は開拓団として植民地満州へ向かって出発している。

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