昭和史への旅 追記
本書の最後に、更に追記して書かねばならぬことが出来てしまった。
二月二十二日夕刻、十年来の友人であった鹿又泰氏がなくなられた。
氏とは、三月中に津田貞義氏絵画展を開催すべく、打合せして準備中であっただけに、この急逝は本当に突然であった。
氏は、この催事を早くやりたがっていた。私は八月まで待ちましょうと提案したが、この時ばかりは強く主張されて、いつもの鹿又氏と違った。なぜ三月にやりたいんですか、と無神経な私はたずね、その返答を市は周囲をはばかって声にはせず、紙切れに「八月までは体がもたない」とメモして渡された。
まさかそんなに体が弱っているとは思わなかった。そんなに重大なことを意味しているのだとは思わなかった。
氏は、カツミヤ(株)企画室販売促進課長としてチラシの制作に、各所の催事の担当に、たゆまぬ精進ぶりを示して、命を削って仕事に尽くし、殆ど戦死のような最期であった。
かつて漫画家であった氏は、広告マンに転身してからも、ユニークなカットで日々のチラシを通して長く原町市近郊の人々の眼を楽しませてくれた。
彼にとっての生活も季節も、すべてがスーパーの企画室という一部屋に存在した。おそらく彼の人生のうちの殆どの時間は、そこで過ぎた。企画室と鹿又氏は切り離せない。
一昨年の暮れ以来、催事の仕事で週に半分は顔をつきあわせ、特に会社が休みの日は、ほとんど一緒に行動していたので、氏の諧謔もウイットも、数少ない愚痴もみな楽しく、私にとっては気の合った友人として最高の人物であった。
年齢の差を感じさせない若さと、知識の該博さ、何より周期の人々への気のつかいよう、思いやりは、命を削るような性分からのもので、とうとう氏はそれを全部使い切ってしまったのだ。
自分の考えを押し付けない。自分を決して勘定に入れない。相手の立場になりきって考える。どれもマネのできない紳士の条件を備えていた。
ウイスキーの似合う、酔っても美しい人であった。
原町無線塔のある旧原町送信所に逓信官吏として原町に赴任して来た父親が、地元原町の女性と結ばれて、そして生まれたのが私です、とかつて伺ったことがある。
あれ(無線塔)のおかげで私はこの世に産まれたんですよ、と。
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