雲雀が原の航空ページェント

昭和三年に雲雀ヶ原に郷土訪問飛行で降りた鈴木克衛機は「雲雀号」とよばれ、一緒に女パイロットも含めて多くの記念写真が残っている。
鈴木克衛の郷土訪問飛行に使われたのは、陸軍航空隊の制式偵察機サルムソン型であるが、これは昭和四年に制式が廃止され民間に払い下げられて普及し、民間飛行士たちの曲芸飛行など航空ショーに使われた一般的な機種である。
昭和三年の野馬追には、朝日新聞社の社機が雲雀ヶ原に飛来したが、これもサルムソン型である。航空から原町の無線塔と五本の鉄柱がくっきりと撮影され、朝日新聞紙上を飾った。
昭和四年には、渋佐浜の上空をゆっくりと南下してゆくツェッペリン飛行船がはるかにながめられた。こうして人々は空への憧れが掻き立てられた。
昭和五年になると、雲雀ヶ原にはまた別なサルムソン型飛行機が飛来した。
これは航空ページェントと呼ばれ、模擬爆撃や、アクロバット飛行なども予定されていたのだが、一月という季節のせいで風雪にたたられ、単に飛行ショーを見せるにとどまった。しかし見物に来た学生たちにとっては、飛行機というものを眼ぢかに見ることが出来て幸福だった。
翌年の相馬農学校の卒業アルバムには、このときの記念写真が収められた。これもサルムソン型機であった。
昭和六年には満州事変が起こったが、日本陸軍では木材と布で出来たサルムソン型の後継機として、全て金属製の新型の八八式爆撃機が採用されて戦地で活躍した。
この八八式に愛国号と名づけて、全国の都道府県がこぞって陸軍に献納する一大キャンペーンが展開されていた。
昭和七年秋になって福島県でも県民からの寄付金による愛国福島号が命名式で披露された。福島市営グラウンドを出発した愛国福島号は九月十九日、雲雀ヶ原に飛来した。
軍用機の献納という事業は県民の軍国教育として大成功を収めたため、今後は海軍機の献納が呼びかけられた。寄付金はなかなか集まらなかったが昭和九年になってようやく実現。海軍報国福島号として、九〇式艦上戦闘機が、今度もまた同じコースで県民の前にお目みえした。
このように雲雀ヶ原は、野馬原とも呼ばれて相馬野馬追祭の祭事場であると同時に、軍国日本の拠って立つ軍用飛行場の実現の可能性が町民の間にとり沙汰されて、昭和六年以降さかんに陳情等の誘致運動が展開されるようになったのである。

昭和七年秋になって福島県でも県民からの寄付金による愛国福島号が命名式で披露された。福島市営グラウンドを出発した愛国福島号は九月十九日、雲雀ヶ原に飛来した。
軍用機の献納という事業は軍国教育として大成功を収めたため、今後は海軍機の献納が呼びかけられた。
寄付金はなかなか集まらなかったが、昭和九年になってようやく実現。海軍報国福島号として、九〇式艦上戦闘機が、今度もまた同じコースで県民の前にお目みえした。
このように雲雀ヶ原は、野馬原とも呼ばれて相馬野馬追祭の祭事場であると同時に、軍国日本の拠って立つ軍用飛行場の実現の可能性が町民の間にとり立たされて、昭和六年以降さかんに陳情等の誘致運動が展開されるようになったのである。

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