アメリカ進駐軍の護送囚人が逃げた! 昭和30年4月4日未明

昭和三十年四月四日午前零時二十七分。臨時急行上り一二〇一列車が、常磐線原ノ町に滑り込んできた。占領軍専用列車ヤンキーリミテッドというのが上下二本あった。これはそのうちの一本。この列車は定刻を七分遅れて発車した。
午前零時半頃。深夜の原町警察署に、けたたましく電話がなり響いた。当直が眠たい目をこすって受話器を取った。
「はい。原町警察署でありますが。」
急報は、原町駅公安室からであった。同じ電話が、アメリカ軍原町キャンプへもかかっていた。
「護送中のアメリカ兵囚人が逃げた」というのである。
またか。と、公安官は思っていた。
つい最近も常磐線で、米軍の囚人が護送中に拳銃を持ったまま逃亡するという事件があったばかりだった。
(まさか原町駅でも同じ事件が起きるとは)
公安官の顔に不安の翳りがさした。
逃亡した米兵は、青森県陸奥市川から横浜に護送中のアメリカ陸軍八一四二部隊のヘパールヒーハー一等兵二十三才で、監視していたMPの隙を見計らって、網棚に置いてあった45年型MP用拳銃を盗んで武装している、という。
青森の基地では、一体何をしでかしたんだろうか。盗みだろうか、それとも兵隊どおしの喧嘩で相手を傷つけたのか。噂に聞くような、日本人女性に対する暴行なんかじゃないだろうな。それにしてもヘパールヒーハーとは、へんてこな名前もあるものだ。
(何事もなければいいが)
やっかいなことになったな、と公安官は思った。
鉄道公安室では、駆けつけた原町署の署員と、米駐留軍原町キャンプの兵士と協力して、ただちに捜索を開始した。
そのころ、原ノ町駅から南へ少し行った所、線路沿いに、一つの影が動いていた。その影は、途中でとある古い納屋を見つけて、そこに立寄った。やたらに軋む、たてつけの悪い扉に、影はびくついた。
あたりに人気はなかった。影はどっかりと腰をおろした。ふう、と一息大きく深呼吸すると、さっきまで歩きどおしで火照っている全身の汗が、今度は気持ちよく冷えてゆくのがわかった。
納屋は粗末な作りのように思われた。板張りの隙間から、星の光が漏れていた。そのカスかな光が、影の顔立ちの輪郭を見せている。短く刈り込んだ頭髪は、茶色がかった金髪で、落ち込んだ眼窩に青っぽい灰色の瞳があった。頬骨の出っ張ったあたりに、そばかすが点々とあった。
ふと、その瞳がうるんだ。
ヘパールヒーハー一等兵である。
彼はここで故郷のことや両親ことを考えていたのだろうか。
それからしばらくして、彼は拳銃を手に持ち、再び常磐線の線路伝いに南へと向かった。別にあてなどなかった。太平洋をはさんで、こんな遠い異国で、言葉も分からないのだから。まして、あの戦争が始まった年に、自分は九才の子供だった。
まさか、こんな場所で、こんな格好で歩いていようとは。
夜霧が立ちこめ始めていた。
水っぽいこの国の田園の眺めが、若い米兵の感情を刺激した。昼間、列車から見えた緑の風景も、ひとたびこうして降り立って見ると、のどかではあっても、彼の日本での経験をことごとく異化した。
夜の闇の下で、黒く伏している山並みや、海の方から吹いてくる生暖かい風や、遠く低く蹲る松林の枝ぶりの形が、米兵にここがアジアであることを告げていた。
午前二時過ぎ。
ヘパールヒーハー青年の行く手に、小さな駅舎の電燈が見えて来た。
さらに近づいて、駅名を確認すると、日本五の表記である漢字と仮名文字の下に、アルファベットで IWAKIOOTAと読めた。
(どんな意味なのかな)と彼は思う。音節だけで考えては全く意味不明の、母音の多い地名は彼は慣れていた。しかし微かな好奇心もすぐに掻き消えた。
なぜならこの時、すでに米兵は、肉体に刻み込まれた戦闘訓練の時の筋肉の感覚の中にあったから。
靴音をしのばせて、彼は駅舎ににじり寄った。
そして暗がりの中で、片手に拳銃の感触を確かめると、順序どおりに安全装置を指で掛け、編上げ靴の中に押し込んで隠した。
そして何食わぬ顔で、駅の構内に出現した。
磐城太田駅にはすでにタブレット電話で連絡が入っていた。退職を目の前にひかえていた松島政衛さん(故人)と、若い高田光雄さんの二人が駅にいた。
「線路伝いに逃亡している可能性があるので、十分警戒し、発見したなら直ちに連絡するように」と原ノ町鉄道公安室から、各駅に連絡が届いていた。
若い米兵は、二人の駅員に近づいて来て、語りかけた。
英語である。さかんに、水戸、水戸と言っている。
水戸へ行く列車は何時に出るのか、と尋ねているようすだった。
時計は午前二時二十分である。水戸行は午前六時にならないと来ない、寒いからそれまで駅室で休んではどうか、と勧めた。
米兵は素直に従って。椅子を二つならべて横になった。
さて、拳銃を以て逃亡した米兵とは、この人物に違いないが、拳銃を何処に隠し持っているのだろうか。あどけない表情の、まだ童顔の少年だ。
米兵の前で電話をかけては、すぐに気づかれてしまうだろう。
時間ばかりがたっていった。
すると、そのうちに若い米兵を睡魔が襲った。
松島さんと高田さんが目くばせで示しあって、若い高田さんの方がこの隙に、こっそり駅舎を抜け出し、近くの線路工手長大和田信一郎さんの官舎へ行き、大和田さんを急ぎ起こして事情を話して、そこから公安室に電話を入れた。
「米兵はいま眠っています。静かに来てください」
磐城太田駅からの連絡は、捜索側を色めきたたせた。米軍原町キャンプのAPたちが、カービン銃で武装し、田立に磐城太田駅まで急行した。
ジープが同駅の近くに着いたのは午前三時頃であった。
高田さんは自転車で、案内燈(懐中電灯)を持って合図するために駅前の若林商店のあたりまで出ていた。
駅には松島さんがいる。一気に飛び込まれて銃撃戦にでもなったのでは困るからだ。
杉内材木店の前で、ジープと出会った。英語の得意な鉄道通訳員松永三好さんが道案内をしてきた。まだ暗い。事情を説明する前にいきなりAPに銃を向けられた時には、高田さんもびっくりした。APは右と左に別れて自動小銃を構えて駅に向かった。
ヘパールヒーハー一等兵は眠り込んでいるところをAPに起こされた。一人は銃口を構ている。立たされた米兵は両手をホールドアップし、上から下まで身体検査され、最後に靴の中から拳銃を取上げられた。
逃亡塀はこうしてあっさりと逮捕され、原町キャンプに連行された。
連行される前に、米兵は煙草を一服吸った、という。
あっけない幕切れだった。
夜空にほんのりと白く浮かび上がった原町無線塔の下には、将校用の瀟洒なハウスが二棟と、カマボコ型米軍兵舎が、そのころあった。
昭和三十年四月四日の朝が明けた。また平和な一日が原町に訪れようとしていた。
逃亡兵は人知れず横浜に送られたのち、軍法会議にかけられ、やがて米国本土に送還された。
このエピソードはその後新聞に載ったが、その同じ紙面に、短い四行の記事がある。
「板付基地前司令官、ピストル自殺」という見出しだ。
(福岡発)駐留軍板付基地空軍基地前司令官A・J・バード大佐は三日朝急死したが、ピストル自殺とみられる。(共同)
占領軍の駐留は、終戦からすでに十年を数えていた。日米戦争自体より長い。
この記事を発見したのは、昭和30年4月5日のお召し列車の原町駅通過の記事を探している時だった。つまり、米軍の囚人が原町駅から逃亡した事件の翌々日に、天皇皇后が原町駅に迎えられたのである。4月4日の未明まで警官と米軍APが原ノ町駅から磐城太田駅まで捜査のために展開した、同じその場所に、今度は制服私服の警備の警官が配備された。4月5日のことである。
こちらのエピソードは「原ノ町機関区ものがたり」にゆずる。
あぶくま新報連載「はらまち昭和史」より。

注。MPがミリタリー・ポリス李グングン憲兵に対しAPというのは、エアフォース・ポリスつまり空軍憲兵のこと。原町キャンプは米空軍のレーダー基地のため、ここの憲兵はAPが担当した。

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