しかしながら、昭和二十三年に、すぐには移らなかった。十二分に受け入れられなかったのです。当分、設備が整うまでは並立中学校という看板が掲げられておりました。
原女の先生方は、相馬農校や原町高校や、その他の学校に分れてゆきました。椙原先生や牛渡先生が宗に二三度旧原女に通ってきました。
そうして秋風が吹くころに、花嫁の輿入れが始まりました。学校が古いだけに、図書類は大変充実しておりました。
嫁入り道具の、机、椅子を満載して、小川町の校舎へ向かったのですが、みんな何度も後ろを振り返りながら、いささかわびしい気持ちに襲われました。傷つきやすい乙女心sで、母校をあとにしたのです。
昭和二十三年は、生徒の教室も別。職員室も別でした。
昭和二十四年に、一緒になりました。
この年、新しい国語の教科書を手にいたしました私は、その時の感動を今も忘れることはありません。
藤村の若菜集の序が、一年生の1ページに載せてあったのです。
「生命は力なり」という書き出しで、新しい時代の象徴でした。すごく、うれしかった。
今までは軍国主義的な色一色。暗い灰色の時代。
これからは、新しい文学、芸術、人生論。生徒に何でもでき教えられる、と思うと、喜びにfyりぇたことを今なおおぼえています。
生徒かい活動では、アッセンブリ―≪全校活動≫やスタデイー・ホール(自由研究)などがあり、時間割の中に入れるのも進駐軍の指導で取捨選択できない。顧問の半谷隆先生の指導で一所懸命に献立作りをやりました。
しかし毎週、全校集会の議題があるわけはなく、先生方のクイズ大会などをやってお茶をにごしたこともありました。
自由研究は、火曜日の七校時目にありました。
先生の得意のテーマでやるので、精神精製について、とか養鶏の話とかいろいろでした。生徒が自由に選べるので、茂垣先生の割烹に、男子がたくさん集まったり(会場笑い)いたしました。
何しろ全部初めて経験することでした。
真山美保の新制作座が来て「人形の家」を上演したり、「能楽教室」をしたり。印象的な思い出がたくさんなります。
試行錯誤の時代でした。土曜日、日曜日が休みになったり、二時間授業をやったり。
歌のオバサンの安西愛子の歌唱指導で、新しい校歌を歌ったり、と民主主義の世の中へ進んで参りました。
今また新しい学制が生まれようとしている時に、原高の発展を見ておりまして、ますますの発展を祈っております。

星千枝元教諭の講演「戦争末期の原女と新制原町高校の発足」の要旨。聞き書き。
昭和61年9月17日午後一時から原町高校で行われた同窓会総会にて。

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