間違いだらけの原町市史の記述

66年旧版原町市史は「原ノ町誘致建設」という項目において
「鉄道常磐線は、明治三十一年四月三日全線開通した」としている。しかし、この四月三日というのは中村~原町間の開通の日であり、原ノ町駅と鹿島駅開業の日である。まだ全通はしていない。全線開通は明治31年8月23日のことである。
また原町市史は、当初は中村に予定されていた機関区設置が、中村の水質が悪いことが原町に変更になった理由の一つとなったという説をあげているが、元原町機関区の川上厳さん(故人)のように「中村には宇多川という淡水が無尽蔵にあるのだから、その説は正しくない」と指摘している。
「原町市史」は「鉄道建設に骨折った人々」として松本孫右衛門を挙げている。
「氏は日本鉄道株式会社によって鉄道海岸線建設の計画あるを知るや、地方開発のため進んで有志とかたらい協力して鉄道によって鉄道建設を支援しようと申し入れ、幸い社長曽我裕準子爵の信頼を受けて数々の功績を遺している」としているが、明治25年当時の常磐線誘致の申請書に松本孫右衛門の名はない。浜通り全体から、孫右衛門よりもやや古い世代の錚々たる顔ぶれが名を連ねているのに、である。
当然な事で孫右衛門は明治6年生まれで、明治15年の相馬における鉄道誘致期成同盟会が出来た頃には9歳の童子だった。
浜街道沿線7郡の期成同盟会が帝国議会と日本鉄道に請願した明治25年には若干19歳であった。
孫右衛門の名が新聞に登場するようになるのは明治29年頃からで、その頃すでに常磐線は布設が決定しており、つまりレールは既に敷かれた後である。かろうじて福島原町間の福原鉄道の布設に関する原町側委員として彼の名が出てくる。
また「鉄道用地の買収には各所に数々の困難があって、しばしば予定の変更も行われたが、氏は率先して時勢を論じ、地主の説得にあたっていずれも成功している。ことに原町鹿島地区用地のトンネル用地(山王)の買収には手をやき、そのため原町付近の建設は他地区より一年あまり遅れてしまい、しばらくは北は中村、南は久の浜で折り返し運転が行われていたが、これも氏のあっせんで首尾よく解決した話は有名である」
と原町市史にはある。しかし明治26年12月14日の民報には
「常磐線鉄道敷設の鉄路 常磐鉄道線中中村以南は既てに土地買収も完結したる次第」
とある。
「中村以北はその路線をめぐって論争しているところだという。
開通の五年も前に「中村以南は既に土地買収が完結」と報道されているのだ。
どうなっているのだろうか。
「土地買収に手を焼き」「そのため原町付近の建設は他地区より一年あまりも遅れてしまい、しばらくは北は中村、南は久ノ浜で折り返し運転が行われていた」というが、遅れた理由を原町鹿島間の土地買収の遅れに帰するのは事実ではない。最後まで残って開通が遅れたのは小高~久ノ浜間である。それならば問題は小高以南にあったのではないか。
「磐城太田駅の開設と西村長」の項目では「国鉄常磐線は上野駅から岩沼駅までであるが」とある。しかしこれも違う。常磐線は日暮里から岩沼までである。上野から岩沼というのは勝手な思い込みにすぎない。原町市史の記述は間違いだらけなのである。

次回 半谷清寿、襲撃を受ける

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