浜通りの鉄道は自動車に駆逐された。昭和42年も、平成27年も。

SL(蒸気機関車)が常磐線から消えた昭和42(1967)年という年は、新国道と呼ばれた国道6号線バイパスが開通して、ふるさとにもモータリゼーションという波が押し寄せたエポックの新時代の奥州浜街道として建設開通した巡り合わせの時期だった。
世はまさに高度経済成長の時代を迎えていた。
それはちょうど昨年2015年3月、浜通り待望の常磐自動車道が遅蒔きながら全線開通したことに酷似しています。2011年3月にスーパーひたちは退場のスケジュールが決まっていた。鉄道からマイカーで首都圏に直接乗り込む夢が実現しました。
そして2016年3月、5年間停車しつづけていたスーパーひたち車両は、解体のために郡山工場に撤去されて行った映像は、おおくの南相馬人にとって複雑な感情を引き裂いた。

ベトナム戦争が激しくなってきた昭和43年、羽田空港に南ベトナムの少女キューちゃんが舞い降りた。福島県仏教界が橋渡しして、お寺の住職一家が引き取って育てるというプロジェクトでマスコミを賑わわせた。東北の田舎町の原町に在住する登録外国人は、ノルウエー人福音系キリスト教宣教師のほかはベトナム国籍の彼女しかいなかった。

常磐線は、首都圏と地方をむすぶ絆として歴史の背景とともに記憶される。国鉄から民営化されたJR東日本と名を変えても、列車通学する高校生の姿は見慣れた風景だった。
生活の各場面が激変されてしまったのは311。

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