進駐軍列車

1945年8月30日、マッカーサーが厚木に到着した。コーン・パイプで知られることになる連合軍最高司令官による6年におよぶ占領時代の始まりだった。九月二日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号で、重光外相らが降伏文書に調印、戦後体制が次第に整えられていく。
厳しい食料事情の中ながら再建に向けた動きも始まった。金成たちの働く国鉄では臨時列車の運行が増え、鉄道業務が再び忙しくなってきた。ただ、臨時列車の利用者はもはや日本兵ではなく、チューインガムを膨らましながら手を振る陽気な米兵たち。彼等は東北各地の駐屯地設営のため派遣されてきていた。
「十月二十五日、進駐軍列車が上下頻々と通る。進駐軍列車の客貨列車は一分一秒でも支障してはならぬのだった。彼等の乗る汽車は優先的に運転である」
戦時中、米軍は日本軍の輸送を断ち切るために、鉄道沿線を襲った。壊滅させるなら鉄橋や線路を爆破すればいいのだが、それを避けたのは占領後、自分たちの移動手段を確保するためのものだった。命を張った輸送業務が米軍の手のひらの中で遊んでいた」ことを知り、金成は愕然とする。
「ここに敗戦国の哀れさをむざむざと見せつけられた」
十月二十五日にそう記されている。
駅の激務はなにも米軍のためだけのものではない。極度の石炭不足とはいえ、一日に二本程度は定期列車もやってきた。列車からは毎日、復員兵が降り立ち、家族とが再会、無事を喜んだ。だが、家族が亡くなったのか、迎えもなくただ一人ぼう然とたたずむ元兵士もたくさん見た。中には「日本がなんだ」と言いながら鉄棒を振り回して暴れる片足の男や抑留生活から精神を病んでしまった男もいる。やみ市の取り締まりが行われているのに「コメありませんか。衣類と交換します」と叫びながら右往左往する大きな布袋を背負う関西方面からの集団もいた。
駅は戦後の日本の縮図だった。
毎日新聞福島版・平成7年8月24日

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