明治30年小高実業会が創立

常磐線の全通する前年の明治30年は、小高町の青年有志が危機意識から小高実業会の設立に奔走した。会結成に先だって飛ばされた檄文にはその緊迫感が漂う。
小高地方有志の諸君に告ぐ
常磐線は今や成らんとす。鉄道開通後における各地のいかに大変革を生ぜしやは今我等のここに喋々を要せざる所なり。しからばわが相馬は如何果してこれが影響をこうむらざるか。言語風俗習慣より典礼にいたるまで、百事皆この地方組織によりて成立せしわが相馬は、一朝汽笛山河をうごかし、南は直に東京に通じ、北は仙台、青森と相対し、俄然社会的濁流の侵入せんかいずくんぞ変化を見ざるを得ん。
われらはその一大変奇を見んことを断言するものなり。これ我等の憂慮してやむあたわざる所のものなり。鉄道は距離を縮小す。距離の縮小を見んか、市街の連立を許さざるなり。たとえば従来の如くここに小高ありて而して三里南すれば浪江あり、北すれば原町あり鹿島ありというが如く近距離の中に班々としてかくの如きものあるは、到底保つべからざるものにして、ここに一大市街たるべきものはそれ小高か、原の町か、浪江かはた新山なるか、これ一に地方人士の覚悟如何にあるのみ。我等は一大市街たらんことを欲するか、はた衰滅を欲するか。
わが小高地方の諸君よ、諸君は衰滅を欲せざるべし。然らばよろしくこれが講究を要すべきにあらざるや、我等は今地勢によりわが小高を見んか、果して自然の発達を得べき地なるか、西には山岳の重畳たるのみ、これを通ずるの良道なきなり。而して地はこれ相馬の片隅に存在す。その隣れる原の町は西に県道ありて福島地方と相通じ、これにより「て大いに交通の便す。彼が南には広茫たる平原あり、土地また肥沃にして彼れが発達を待つあるものの如し。浪江は如何、同じく西に坦坦たる県道あり、かつは請戸湊のあるなり。自然物資の集積地たるものの如し。相顧て小高を思う。我等の大いに憂慮にかえざるもの実にここにあるなり。然れども不自然の地かえって大いに盛を致し、自然の地かえって衰敗に帰するものあり。これその大いに覚悟する所のものあればなるべし。然りといえども若し不自然の地にありて而して尚覚醒する所あらずんばその衰敗に帰するは必至の勢なりというべし。
聞くにその原町においては、大いに計画する所のものあり。今の彼等の専心「郡分合案」の成立を期するゆえんのものは期する所、郡衙を移して以てもっぱら相馬の中心たらんとするにあり。五か村相結合して日夜専ら運動そ、その他銀行を設立するというが如き、又中学校を建てんというが如き皆これ画策たるものなり。浪江又然り。彼は彼の県道により彼の室原、高瀬の二流により大いに木材を出し、又大堀陶器業を改良して大いに輸出を計るというが如き、これ又熱心に経営しつつあるものなり。その他中村の如き鹿島、新山の如く皆これなり。(後略)」
明治三十年四月 鈴木淳 二本松清記 阿部鶴五郎 田村忠治 鈴木良雄の呼び掛け人の連名がある。反響は大きく、同年八月、実業会規定の草案が作られ有志が集まって鉄道開通後の準備案が懇談され、九月二十三日に創立総会が会されることとなる。

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