明治三十年秋、雨宮敬二郎が来町して仲裁の結果妥結をみた。すなわち用地は当時の公定価格の二倍半、その他地主側の要望も大方容れて事件は有利に妥結したと思われていた。ところが翌三十一年七月半谷は福島市の弁護士丹野某なる者によって告発され、突如検挙されたのである。
半谷六郎(清壽の二男明治二十二年生)は、このことについてつぎのように述べている。
「清寿はこの事件によって反対派の恨みを買い、明治三十一年突然小高神社下(現相馬宮司宅)にあった老生(六郎)の生家に、予審判事、検事、警察の訪問をうけた。福島市の弁護士丹野某の告発状によるものであった。」 小高町史
全くの誣告のために、ともかくも未決拘留八か月の後無罪放免となった、しかし彼は拘留中悪質な眼病が伝染し半眼は失明してしまった。 同
「地方新聞等は殆ど会社側に立って彼も罵倒した」と書いているのは、福島民報のことである。「実業新聞」とは、のちに福島民友新聞につながってゆく新聞である。
民報が半谷を攻撃したのは民友が政友会の機関紙であり、実業新聞(のちの民友)が半谷を応援したのは、半谷が憲派と呼ばれて政友会の反対党であったからである。同じ小高の政友会の鈴木重郎治(のち県会議長)もまた、日鉄の用地買収に最後まで抵抗しているのだが、民報はとうぜん政友会系の鈴木を攻撃まではしていない。
民報が半谷を攻撃するのは創刊した直後の26年からで、明治29年4月16日民報は「〇半谷等の買収したる土地数筆」と題して、「地価一倍内外の定価にして之を買収し会社に対して故障の種を作りたるもの半谷清寿に於て五十四点…・雨敬の廻し者に買収されたりといふ」など、最初から敵意をもって半谷を攻撃している。
続いて民報は、一方で時田忠治氏を持ち上げて、返す刀で半谷を攻撃する。
「〇時田忠治氏の義侠 うんぬん

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