1945年6月16日に2機の日本海軍の偵察機が沖縄に出撃したが、不調のためもどった。したがって、25日の英夫の乗った彩雲が、沖縄における日本軍の組織的戦闘は終了した。
沖縄中城湾に空母1、輸送船20を視認し、英夫の無電で敵情が報告された直後に「敵の追尾あり、銃撃さる」の打電を最後に通信が途絶。喜界ケ島上空で行方不明となる。
英夫の故郷の原町の母は、昭和20年の6月中に、飛行服を着た英夫が枕元に立ったという。
ある日、起きてすぐに、母が「飛行服姿の英夫が昨夜『ただいま』と、夢枕に立った。きっと、戦死したに違いない」と、言ったことを憶えている。
弟範雄さん。
2、3年たって、戦死公報がきて、公式にはそれで確定ということになったが、不思議なことである。
昭和21年5月7日付の消印のある手紙で、横須賀復員曲人事部勤務の千葉良雄」さんから父宛に『戦死公報がまだ出されていないので、非公式情報であるが・・・・』の前書き付きで『早川英夫さんは中城湾上空での偵察結果を350語ほど無電で報告後、喜界が島付近上空で、「戦闘機の追尾攻撃を受けている。被弾、・・・・」との無電連絡を最後に消息を絶った。
15時30分頃であった。』との情報を、松山基地・鹿屋基地で同じ第343海軍航空隊におり、一時は同じ飛行機に乗ったこともあるという小島啓志海軍中尉から聞いた旨、知らせがあった。
昭和22年5月23日付文書で、大甕村役場から区長経由で、戦死公報がくる。その後公布された白木の箱には、「英霊」と印刷された小さな紙片が入っていただけである。
昭和27年厚生省から「遺族国庫債券(額面5万円昭和28年~昭和36年の分割払い)の送付があった。
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